ある曲が、実際にはゴーストライターによる作曲だったことが話題になっています。このネタは段々とゴシップ化していますが、ボクはその辺のことには興味がありません。
ボクが興味があるのは、むしろこちらの方です。この話には、その曲が高く評価されていたのは、「作曲家」(とされていた男)の特異なプロフィールによるものであったのではないか、という疑問が付き纏っているのです。
また一方では、この行為が明らかになったのち、「曲そのものに罪はない」として、今度は「(偽)作曲家」(あるいは「ゴーストライター」でさえ)と「曲」を切り離そうとする動きもあります。一体、これはどう考えるべきでしょうか。
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フランスの記号学者ロラン・バルトは、かつて「作者の死」ということを述べました。作品というものは、じつは作者の意図にだけ従っているわけではない。そこには様々なコンテキストが関わっているのです。彼はテキストに関して述べているのですが、これをたとえばジャクソン・ポロックの絵画に適用して考えてみましょう。彼のアクション・ペインティング(キャンバスの上で踊るようにして絵の具を散らす手法)によって描かれた絵画は、ただ彼の意図に従うのではなく、たとえば重力、風の力、あるいは筆やキャンバスの素材、さまざまな要素が絡み合っているのです。
こうした時に、いったい「作者」というのはどう考えられるでしょうか。ここで、哲学者ジャン=リュック・ナンシーとフェデリコ・フェラーリが言うところの、「制作者」と「作者」の区別が重要になってきます。
1.歴史的存在である作品外部の「制作者」
2.作品そのものから立ち上がってくる「作者」
その両者の違いを考えなくてはなりません。たとえば、ポロックが描いた絵画の「制作者」はもちろん(歴史的存在としての)「ポロック」ということになります(これが商業映画ともなれば、この「制作者」リストは膨大なものになってきます)。
いずれにせよ、重要なことは「制作者」は歴史的存在としての「ポロック」だということです。「制作者」という点から作品を理解するということは、歴史的存在としての「ポロック」のプロフィールや過去の発言から、その作品を理解するということになります。言いかえれば、「制作者の意図」を探るということが、作品理解とほぼイコールで結ばれるのです。
しかし、バルトの言葉を思い起こせば分かるように、そこには様々な要素が入っています。したがって、ポロックが描いた絵の「制作者」はポロックであっても、その「作者」はポロックではありえません。なぜならば、ナンシーが言うところの「作者」というのは、作品そのもの、その作品に内在するもののみから立ち上がってくる存在だからです(この文脈において、「作者の死」は実際には「制作者の死」を意味します)。
ポロックの絵画はポロックその人と固く結び付いてしまっているので、これは少し分かりにくいかもしれません。ここで例を替えてみることにしましょう。たとえば≪ラスコーの壁画≫。≪ラスコーの壁画≫の作者は誰でしょうか。これは、「ラスコーの壁画の作者」以外の誰でもあり得ません。ボクらは、ラスコーの壁画そのものから「作者」を想定するしかない(考古学的知見とかそういうものは、ここでは一旦脇に置いておきます)。
「彼」が何を見て何を考えたか。それは絵の中にしか存在し得ないのです。これがナンシーの言うところの「作者」です。そして、バルトの言葉を思い起こすのならば、この「作者」は歴史的存在としての個人ではなく、むしろその絵が置かれていた「環境」のようなものです。
ボクらは時に、この作品内部の「作者」と作品外部の「制作者」をイコールで結んでしまうという誤りを犯します。しかし、それは単なる誤りと片づけられるものでしょうか。
つづく