永遠と永久 | 想像上のLand's berry

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言葉はデコヒーレンス(記事は公開後の一日程度 逐次改訂しますm(__)m)


―夢の場所が終わりでなくて、先の道があってよかった―松井玲奈



「永遠と永久」

 ボクらは激流の中にいる。

 ボクがなぜ「会いに行けるアイドル」に会いに行かないか。それにはいくつか理由があるんだけど、その内のひとつは「永遠と永久」の問題なんだと思う。

 アイドルというのは「瞬間」を輝かせるもの。瞬間を輝かせて、それを「永遠」のものにする。瞬間から永遠へと至る無限の上昇性こそが、アイドルの存在を規定する。永遠は瞬間のうちに宿るもの。だから、「永遠の瞬間」というのは、おそらく「はかなさ」に結びついている。アイドルの時間は限られている。はかないからこそ、永遠を感じることが出来る。

 和辻哲郎はかつて「もののあはれとは畢竟この永遠の根源への思慕でなくてはならぬ」と言ったわけだけれど、現代の「アイドル」が、日本的な意味におけるアイドル=瞬間を輝かせるアイドルであって、それが日本特有の文化だってのは、たぶん、そういうことなんだろう。

 一方、ベンヤミンは「複製技術時代の芸術作品」において、複製技術時代の芸術作品は、アウラ=一回性を失うと述べた。だけど、じつのところベンヤミンの時代の「複製」は、カッコ付きの複製に過ぎなかった。いくら複製であっても、物として別物なわけだから、それぞれに、ほんの僅かではあっても違いは存在していたんだ。

 「デジタル」というのはそういうものではない。それは基本的に数字(digit)で構成されるものだから、それは真の意味で複製することができる(もちろん、パフォーマンスされる段階では[たとえばモニターの設定などで]違いは生じるわけだけど)。ここには一回性なるものは端から存在しえない。

 「アイドル」というのは、そうした真の複製時代の中で、一回性=アウラを最大化させる存在だと考えることが出来る。握手会なんてまさにその典型で、握手はその瞬間にしか存在し得ない。それはファンにとっても、アイドルにとっても、ただその一回限りのものだ(もちろん、ループすることは出来るわけだけど、それは同じものではない)。そこでは両者のアウラがスパークする。

 そしてまた、「(アウラは)どんなに近距離にあっても近づくことのできないユニークな現象」であるとするベンヤミンの言葉を思い起こすならば、そこで手を繋いでいる存在が「触れ得ない存在(アイドル)」であるという点において、このアウラは最大化されている。そして、その瞬間は永遠のものとなる(ボクはそれを美と呼ぶ)。

 だけど、ボクはきっと根っからのデジタル人間だ。それは単にデジタル機器が好きだってことを意味しない。それはつまり、同じものが何度も繰り返されることを欲する、ということを意味する。ボクは時々、こう思うことがある。「あらゆるモノを記録しておけば、それは文字通りリピート(再生)できる。つまり、それは永久のものになるということじゃないか…」。

 「会いに行けるアイドル」に会いに行かないボク、にとってのアイドル体験は、すべてメディアを通したものに過ぎない。そこに一回性=アウラなるものは入り込む余地がまるでない。だから、そのメディアをすべて記録して、リピート(再生)すれば、ボクにとっては、まったく同じものがそこに現れる筈なんだ。

 だけどもちろん、そんなわけはないんだろう。なぜならボクが「デジタル人間」であったとしても、ボク自身が「デジタル」な存在であるわけじゃないからだ。記憶を忘れてしまうことなんて出来やしない。思い出を消してしまうことなんて出来やしない。ホントは、同じ経験なんて、もう2度と出来やしないんだ。

 でも、きっと心の何処かで願っているんだ。永久に繰り返される未来を。ボクだけの「Heart Beat」を。それが、まるで「シーシュポスの神話」のようだと分かってはいてもね。

 ボクらは激流のただ中に居る。

 そしてまたボクは願っているんだ。ボクが間違っていると彼女たちが証明してくれることを。