「成聖論」
1.「イコン」
正教会に「成聖」という概念があります。正教会で用いられるイコンは、基本的には伝統に従った図柄で描かれます。この伝統に従った描き方で模写すれば、それはイコンと見なされるか、と言えば、それはそうではありません。イコンは司祭が「成聖」を行ってはじめてイコンになるのです。イコンとまるで同じ作り方で、まるで同じ図柄のものがあっても、「成聖」されない限り、それはイコンではあり得ないのです。
現代において、この「成聖」という概念がとても重要な意味を持ってきています。もちろん、それはキリスト教的な意味での成聖ではあり得ません。しかし、そこにはある種の類比性が見て取れるのです。
2.「芸術」
この別の意味における「聖なるもの」として、まず「芸術」が挙げられるでしょう。20世紀における美術史上の大事件と言えば、まず何を置いてもマルセル・デュシャンの≪泉≫(1917)が挙げられます。彼は、そこらで売られていた便器を美術展に持ち込んで、それを芸術作品≪泉≫だと称したのです。それは、「芸術」という概念がもはや何の意味も持っていないということを、何よりも明らかに示した出来事でした。
さらに、アンディ・ウォーホルは、アメリカのどこでも見かける「ブリロ・ボックス」(商品用のダンボール箱)を、正確に複製して芸術作品≪ブリロ・ボックス≫(1964)として提示しました。
しかし、デュシャンの≪泉≫やウォーホルの≪ブリロ・ボックス≫はいかにして芸術として区別できるのでしょうか。
アメリカの哲学者アーサー・ダントーは、これを「アートワールド」という概念を用いて説明しました。「アートワールド」とは「ある芸術作品が芸術作品であることを保証する理論的・歴史的審級」*であり、芸術家や批評家、学者などによる美術批評や言説の、いわば束のようなものと考えて良いでしょう。
*『現代美術用語辞典ver.2.0』[http://artscape.jp/artword/index.php/アートワールド]
ここに、ボクが言うところの「成聖」という概念が関わってきます。つまり、デュシャンの≪泉≫やウォーホルの≪ブリロ・ボックス≫は、デュシャンやウォーホルによって「成聖」され、「芸術」になったと考えられるのです。そして、彼らのそうした権威(成聖をなし得る権威)は、(イコンを成聖する司祭が教会によって権威づけられるのと同様に)「アートワールド」によって権威づけられているということになります。
3.「写真」
このことはまた、デジタル時代における写真においても言うことが出来るでしょう。ここでの「聖なるもの」は、「芸術」ではなく「記録としての権威」です。デイヴィッド・ベイトが
デジタル写真でのリアリティをもたせる効果のいわゆる喪失は、たとえば2004年のアブ・グレイブ刑務所のデジタル写真の信憑性に、否定的な影響を及ぼすことはほとんどなかった。あるいは、それと同じことが、日常のニュース写真にも言えるし、われわれは相変わらずそれを『額面通り』受け取っている。(『写真のキーコンセプト』)
と指摘するように、デジタル時代においても、写真はその信頼性を失っていないように見えます。
これは何故でしょうか。アメリカの哲学者C.S.パースは、写真は、「対象からの発光の結果であることが知られているという事実によりインデックスとなる」と述べています(インデックスとは隣接性による記号です。たとえば、足跡は足の物理的痕跡であることによって足を指し示します)。つまり、我々がその画像を写真だと知っていることが、それをインデックスにするのです。そして、インデックスであることによって、写真はそこに写されたものの証、存在の痕跡だと見なされることが出来るのです。
しかし、デジタル時代においては、写真は容易に加工・合成が行えるものであり、また操作の跡も残りません。それに加えて、写真と見分けがつかないようなCGも登場しており、我々は、一見、何が写真であるか区別がつかないような状況にいます。
ここで重要な意味を持ってくるのが、「成聖」という概念です。報道機関やメディアなど、写真をインデックス(存在の痕跡)として用いる機関は、その画像を写真として「成聖」することによって、他の画像と区別しています。たとえば、撮影者や報道機関名などを明記することによって、それは「写真」として「聖別」されるのです。我々はそうした「メディアワールド」の権威に従って、それを「写真」であると見なすのです。