いま再びポニョを。2 | 想像上のLand's berry

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言葉はデコヒーレンス(記事は公開後の一日程度 逐次改訂しますm(__)m)


いま再びポニョを。

 『ポニョ』は長編映画というよりも、むしろ中編に近い印象があります。尺的には『魔女の宅急便』と同じくらいの筈なんですが、なにか「物語が薄い」ように感じられるのです。終わり方も非常にあっさりしている。ボクも劇場で「あれ? もう終わり?」と思った記憶があります。

 押井さんは、『ポニョ』は宮崎さんのダークサイドが出てないからダメだって話をしていましたが、まあそういう見方もあるでしょう。単純に「物語」という側面(あるいはそこに込められた思想性という点)から切るならば、『ポニョ』には大して評価すべき点は見当たらないかも知れません。

 だけど…ボクには、そうした欠点を補って余りあるものがあると思えるのです。


1.子どもルール

 『ポニョ』にもっとも似ているのは、おそらく『トトロ』です。しかし、『トトロ』と『ポニョ』には重要な違いがあります。『トトロ』は基本的にソリッド(堅固)な世界なのですが、トトロが現れるときにだけファンタジー世界(柔らかい世界)になります。トトロに会えるのは子どもだけなので、そのファンタジー世界はまた子どもの世界でもあるわけです。

 あのドングリの木が生えてくる場面を思い起こしてみましょう。毎日、毎日メイが「芽でないかな」と気にしていると、ある晩、お父さんが「トトロなら知っているんだろうけどな」と言うのです。この何気ない一言がメイと(おそらく)サツキに影響します。

 そして本当にトトロが現れ、一夜にしてドングリは大木へと成長を遂げます。あの生命力、あのマジック・ワールド。あれこそまさに子どもの世界です。しかし、目が覚めると大木は消えて、現実世界へと戻ります。だけど、その魔法は僅かに残って、芽が出ている…

(ちなみに、ボクがあの頃『トトロ』に影響されて庭に植えたドングリは、まあ日当たりが悪いながらもヒョロヒョロと、とにもかくにも「木」と呼べるようなものに育ちました)

 『トトロ』は現実世界とファンタジー世界の間を行き来します。それはまた、大人になりつつある12歳のサツキが、子どもそのものである4歳のメイと、大人である母の間を行きつする物語でもあるわけです。実際、それはメイの行動を手紙で母に送るという行為によって構成されています(この分析はいらんな…)。

 一方、『ポニョ』はどうでしょうか。主人公の宗助は5歳で、ほぼメイと同じ年頃です。その行動も良く似ている。子どもは一途で無邪気で想像力が豊かで、そして時に粗野で凶暴です。メイが2階で見つけた「まっくろくろすけ」をバンっ!と両手で捕える――じつは潰しちゃっているのですが――場面は、宗助がポニョの入った瓶を石でドンっ!と叩き割るシーンを連想させます。

 おそらく宗助と同じ年頃であろうポニョもそれは同じです。無邪気ではあっても決して無垢ではありえない。実際、ポニョは良く寝て、そして良く食べます。のちにはハム(肉)が好きになりますし、冒頭の場面でも、何か海の生物をパクッと捕食している。しかし、こうした無邪気な粗野さ/凶暴さが物語の扉を開いていくのです。

 『ポニョ』は全体、(ポニョと宗助という2人の)子どもの世界です。子どもルールによって成り立っていると言ってもいい。それは、願いがそのまま形になってしまう柔らかいファンタジー世界――マジック・ワールド――です。ポニョが宗助に会いたいと願えば、人の身体になってしまう。子どもの持つ想像力には限りがありません。

 この力が『ポニョ』の世界全体を包みます。大人が取り戻そうとするけれど、子どもの力に圧倒されてしまう。果ては海や月までもが影響されてしまう。『トトロ』のように、夢から覚め現実世界に戻ってしまうなんてことはありません。『ポニョ』は、その世界全体がメイによって作られた『トトロ』のようなものです。そこでは、夢と現実との境界は極めてあいまいです。

 『トトロ』がファンタジー世界が現実世界に影響を及ぼす物語だとすれば、『ポニョ』はファンタジー世界に行ったきりの物語…あるいは現実世界とファンタジー世界が融合してしまった物語です。「不思議なことが一杯」起こるけれど、『ポニョ』の世界では、そんなことはまったく問題になりません。だってこれは子どもルールの世界なんですから。


2.マジック・ワールド
 子どもの持つこの想像力、この生命力(ドングリの木のあの生命力!)を「海」と結びつけてしまうところが、宮崎監督の天才たるゆえんです。海…というのは、それ自体が生命の源です。冒頭の海…画面の中で、あらゆるものが動いています。あらゆるものが生命の息吹を与えられています。

 アニメの語源がラテン語のAnima(魂)、Animatio(生命を与える)であることを思い起こすのならば、動かすことで生命が与えられるのです。海=生命=アニメ。とにかく、あらゆるものが動く、ということにすべての力が注がれている。画面から充ち溢れるあの生命力…それはまた、ドングリの木に生命力を与えたあの作画の力でもあるわけです。

(ちなみに、Animaはまたギリシャ語のAnemos―息吹―に由来することを考えるのならば、『風立ちぬ』で風を表すことに集中した宮崎監督は、アニメーションの根源へと遡っていると考えられるのです)

 絵に命を与えるというのは、それ自体がマジックです。マジックによって描かれた子ども世界のマジックワールド。あの生命力、あのマジカル。ポニョと宗助の出会い。地上でも(その高まりを表すように)ありとあらゆるものが動いています。草木…花々…

 ポニョとの一旦の別れ。そして世界は夜になり、詩的な静けさが訪れます。あれほど生命力に充ち溢れていた世界は、ポニョの不在を反響するように静寂で包まれます。風は止み、波も止み、画面の中から動きがなくなります。静かな静かな画面。夜の暗闇。少し大人びた宗助の顔…

 そして、ボクがもっとも好きな場面、もっともマジカルな瞬間が訪れます。夜の静けさに包まれた画面のなか、耕一の貨物船が通りすがる。交わされる光。あの点滅する光。ボクが橋の上から眺めたあの鉄塔の灯…あの風の音…あの感覚を映像に出来る人は、(ボクにとって)それだけで無条件の肯定に値します。

 そして、ポニョの覚醒、圧倒的なエネルギー…宗助との再会…ポニョの眠りに呼応するように、再び訪れる夜の静けさ…しかし、朝が訪れると、もはや現実世界は影も形もありません。あの2人が一緒に居ることで、この子どもの世界はどこまでも突き進んでいきます。古代の海、地球のDNA…すべてが魔法によって生み出されたマジックワールド…。あの色彩。
 
 たしかに映画的魅力には欠けるかも知れません。でも、この作品はそれ自体がまるで魔法のようです。