正しくあるために3(ポップの時代) | 想像上のLand's berry

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言葉はデコヒーレンス(記事は公開後の一日程度 逐次改訂しますm(__)m)


『ポップの時代』

「わたしたちの思う前へ向かって」

 須田ちゃんはこう述べた。「わたしたちの思う」という部分を強調しながら。ボクはビックリした。その「わたしたち」には「ボクら」は含まれるんだろうか。「ボクらの思う前」と、「わたしたちの思う前」が違ったらどうするんだろう。もちろん、須田ちゃんがそこまでの含意を込めたとは思わない。だけど、言葉を大切にする須田ちゃんだからこそ、なおさら気になった。

 進むべき道を決めるということは、それ自体が政治の問題だ。正しい道なんて誰にも分からない。衆愚という言葉があるように、いつも大衆が正しいわけじゃない。時に彼ら(ボクら)は愚かだ。だけど、道を間違えるにしても、それがみんなで決めた道ならば、ボクはついて行く。たとえ正しい道であったとしても、それが勝手に決められた道であり、ボクの行きたい道じゃなかったならば、ついて行くことはない。

 この時、「その道が正しいかどうか」なんて端から問題にはならない。正しい道なんて誰にも分からない。これは、行き先が正しいかどうかの問題ではなく、行き先を決める方法が正しいかどうかの問題なんだ。なぜ民主主義が「正しいのか」という理由に関しては(以前も書いたし)、現在、ほとんどの政府が民主主義を標榜していることを考えれば十分だろう。

 もちろん、芸術には必ずしも民主主義が相応しくない場合がある。作品の全てをコントロールしようとする宮崎監督が「独裁者」と呼ばれるのは有名な話だ。

 でも…果たしてそれは48に相応しい方法だろうか。完全にコントロールされたものを作るのが48だったろうか。むしろ、48こそポップの最たるものではなかったか。20世紀における芸術という記号の崩壊、ネット時代における民主化の流れ。もはや権威は崩壊し、あらゆるものの基準として機能するのは人気(あるいは貨幣)しかない。現代はポップの時代だ。そして、48はその流れにのって登場してきた。

 これは第一に階級闘争であった。民衆の願いを反映するものだった。メディアと芸能界という、わが国で最も旧態然とした特権階級に支配された体制に対する殴り込みであった。誰かひとりに気に入られれば仕事がもらえ、誰かひとりに嫌われれば干されてしまう。そんな腐った旧体制に叛逆の狼煙をあげたのが48だった。そんな腐った世界と戦うために、彼女たちはボクらを必要とし、ボクらは彼女たちを必要とした。

 音楽性がどうのこうの言いながら、その実、体制内で消費されるだけの籠の小鳥に過ぎない、そんな連中は「クソくらえ」。だれがロックだって? ボクらは、そう言ってしまえるだけの力を持っていた。秋元康は芸術家ではないし、48はアーティストではない。48は芸術ではなくむしろ反芸術だ。そして反芸術であることによって、むしろ真の意味で芸術そのものだった。

 それがいまじゃどうだ。ただ売り上げを維持せんがために増やされていく握手会ドーピング。とっくに破綻をきたしたスケジュール。そのツケをすべて回され、疲弊しきったメンバーたちの顔。一葉、また一葉と欠けていく羽たち。ちゃんと時間もかけられずに送り出される消費財のような「作品」。そんな状況で、いったいどうやってファンを増やせるのか。

 そして、ボクらがぶっ潰そうとしていたものが、いまやボクらを取り込み始めている。もはや時代に取り残されながら、それでもまだ圧倒的な影響力を保持し続ける旧メディア。芸能界で過ごした時間が長くなり、その文法に呑み込まれていく48。かつての革命の闘士――民衆を導く自由の女神――は、いまや理念を失い、まるまると肥え太った資本家へと秋波を送る。なんのことはない、結局、ボクらは民主化のための戦いに負けたんだ。

 „Ist der auch nicht anders, wie ein gewöhnlicher Mensch!"