
「バロック的/ギリシャ的」
青い照明のなか、まるで海の底で光を浴びているような姿。常に光度を保つバラエティ番組と違い、劇場の照明は変化に富んでいる。そのためか、劇場では美しいのにバラエティ番組などで見かけると、「あれ?」と思うことは良くある、
そして、多くの人は、バラエティ番組のように、きちんと照明が当てられ、細部まで明確に映し出された状態での姿を「真の姿」(地デジ対応)だと考える。それに従って、「この子は美人だ」とか、「この子は美人ではない」という風に格付けされる。
でも、ボクはこのように美を客体にのみ依存するやり方だけが正しいとは思えない。それはギリシャ彫刻のように(すべてが明晰な)アポロ的芸術に典型的な考え方だ。
むしろ、美は関係性によって生じる。指し示した指にどんな意味があるのか、(眼差し)「ありがとう」というセリフにどんな想いが込められているのか…それを知ることで、その場面が美しいものだと知るというように…。
かように、美というものを関係性という観点から考えると、また違ったものが見えてくる。美は単体で存在しているものではない。関係性/文脈の中で美は生じる。仄暗い青さの中で歌う姿が美しいのならば、それは確かに美しいのだ。それは、「美しくないもの」を「照明が美しくしている」のではない。そうではなく、その両者の関係性の内に、美は溶け込んでいる。
「後ろ姿は美しいのに、振り返ってみたらそうでもなかった」ってのは、男がよくする話だ。そして、振り返ってみた時の姿が「真の姿」であるとされる。でも、きっとそれはそうじゃない。
たとえば、ギリシャ彫刻はどこから見ても美しいのが理想とされるけれど、バロック彫刻の場合は見る位置が厳密に定められている。バロック彫刻では位置(鑑賞者)との関係性によって美が定まる。では、バロック彫刻はギリシャ彫刻より美しくないか? (そう考える人もいるだろうけれど)それはきっとそうじゃない。それは単に、美に対する捉え方、美のモードが違うだけだ。
「美人」というものの定義を(どんな状況でも美しい)オールマイティだけに区切るのは、ボクにはどうにも馴染まない。「美人」という言葉を、単に造形の問題として片付けるのは、ボクには馴染まない。明るい照明のなかではパッとしなくても、仄暗い照明のなか、ほとんどシルエットになったような姿で、ハッとするような幽遠な美しさを見せる人というのは居るだろう。
その瞬間、(バロック的)美は(ギリシャ的)美を越える。