アイドルの二つの身体 1 | 想像上のLand's berry

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言葉はデコヒーレンス(記事は公開後の一日程度 逐次改訂しますm(__)m)


「アイドルの二つの身体」

 濱野智史さんは「アイドルの二つの身体」という言葉を使う。それは、「リアルの身体」と「ネットの身体」という二つの区別を指している。しかし、ボクが思うに、いま顕在化している「アイドルの二つの身体」とは、「アイドルの身体」と「人間の身体」だ。

 そこでは「アイドルとして」という理念と「人間だから」という現実が、常にせめぎ合っている。たとえば、「アイドル」古畑ちゃんは握手会での古畑ジャンプを続けたいだろう、でも、「人間」である身体は、時にそれにブレーキを掛けてしまう*。

 これは身体的なものに限らず、当然、精神的なものをも含むだろう。典型的なものは「恋愛」に現れる。たとえば、恋愛禁止を破ったみぃが坊主になったのは、人間である部分、女性的な部分を切り捨て、「アイドルとして」生きていくという言明だった。もちろん、アイドルという価値観が先にあるから、「坊主アイドル」というのは存在しえない。けれども、「アイドルの身体」と「人間の身体」という構図を考えた時に、「人間として」の立場を優先してしまった彼女が、その部分を切り離すことで、「アイドルとして」生きていこうとしたのは(今では)ボクは理解できる。そういう意味では、(あれが実際、良かったかどうかは別として)あの子はアイドルというものの本質を本能的に分かっているわけだ。

 みぃの坊主エピソードが表しているように、端的に言って「アイドルの二つの身体」は「聖俗」の区別に相当する。「坊主になる」(出家する)ってのは、まさに「世俗」から離れ「聖」になることを意味するわけだ。それと同じように、俗っぽさを切り離したところにアイドルというのは生まれる。(disる積もりはないんだけれど)他のファッション研究会メンバーよりも一年中プージャーの人がアイドルとして強かったりするのは、それがまさに、「流行り廃り」という俗っぽさから切り離されているからだ(もちろん、それだけではないんだけれど*)。

 *.かおたんはウルトラC的な要素ばかり注目されているけれど、よくよく考えてみると、じつはアイドルとしての肝は外してないことが分かる。黒髪至上主義を攻撃するくせに自分は黒髪だったりするしね。

 とは言え、やっぱり「人間である」以上、完全に「アイドルとして」存在するのはムリだ。それは須田ちゃんだってそうだろう。それでも、なんとかアイドルであらんとする。それこそがアイドルなんだ。「アイドル」ってのは、どうしようもなく人間である部分を引き摺りながら、それでも「アイドルという価値観」を信じて、それに寄り添わんとする存在だ。

 そういう意味でもアイドルは修行僧と似たようなもんだ。いくら人間であるからといって、そこで割り切って人間の方に振りきってしまっては、もはやアイドルではありえない。還俗してしまったら僧侶とは呼ばないのと同じことだ。「アイドルであること」と「人間であること」の間に板挟みになりながら、それでも「アイドルという価値観」を信じ続けること、それこそがアイドルの根幹なんだ。

 そして、そうした葛藤や悩みや人間臭ささえも「アイドルとして」の魅力になる。それは、良寛さんに魅力があるのと同じことだろう。人間としての脆さや弱さを抱えながらも、仏の道を信じた人の軌跡がそこにあるから、ボクらは良寛さんに共感を覚える。仏の道を諦めちゃったらダメなんだそれは。

つづく