岡田斗司夫さんによる『風立ちぬ』評*を読んできた。
(完全にネタバレ評なので、映画を見る前の方にはお勧めできません)
まあ、「宮崎駿の最高傑作」とかいう話はともかく、言っていることは大体において納得できる。ただ、「ファンタジー」ってことに関してはボクと食い違っているなと。彼は『風立ちぬ』における夢の場面について、「ファンタジーじゃないんだから。そうじゃくて彼(堀越二郎:筆者注)の脳内でそんなことを言ってほしい」ものだと書いている。ボクもそれはそうだと思う。というより、ボクはそのことをこそまさにファンタジーと言っているわけなんだ。つまり、ファンタジーという言葉の捉え方に(ボクと彼とで)違いがある。
主人公が望んでいるものが画面に現れてくる、それこそまさに「ファンタジー」(空想)だとボクは思う。それは文字通りの意味で「空想」だ。だけど、岡田さんが「ファンタジーじゃない」って書いている時のファンタジーってのは、たぶん確立されたジャンルとしての「ファンタジー」を指している。そんなことを少し感じた。
まあでも、それは些細な違いに過ぎない。宮崎監督自身が引き摺りこまれてしまっていることを、「徹底的にリアルである」と呼ぶか、「作家の空想が描かれているに過ぎない」と呼ぶかの差はあるけれど、岡田さんは、ボクが「宮崎監督の自己満足」という言葉で言わんとしていることを、より分析的に、より説得力をもって書いている。「ああ、なるほどね…こういう文章を書ければ文筆家として食っていけるわけだね…」とボクが思ったとかどうとか。
まあそんなことは置いておいて、なんか…こうすべてを監督の意図に回収して、完全に整理してしまうやり方ってのが、最近、どうにも居心地悪く感じる。たしかに、宮崎さんってのは完全に画面をコントロールする人だ。意図的に「余白」(解釈の余地)を残す押井さんとは違い、宮崎さんの画面ってのは読みこもうと思えば、どこまでも読める気がしてしまう。あらゆる細部に意味が込められていると思ってしまう。
ただ、それを言葉で捉え直した時に、あまりにも四面四角なものがそこに出て来てしまう。ホントはもっと柔らかくふわふわとしていて、感覚でしか捉えられないような、言葉に出した瞬間にスッと逃げて行ってしまうようなものが、そこにあった筈なんだ。
それを言葉で捉えた時に、「ウソ」というわけではないんだけれど(たとえば、画家が怨念を込めて描いた絵画をデジタルデータとして取り込んだ時のように)…なにか失われてしまうものがあって、そしてその失われてしまう部分にこそ宮崎さんの本質があるんじゃないかって思ったりもする。
まあ…これも結局、言葉なんだけどね…
『風立ちぬ』(ボク自身のレビューは↓)