押井守論 | 想像上のLand's berry

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言葉はデコヒーレンス(記事は公開後の一日程度 逐次改訂しますm(__)m)


「押井守論」

 中学生の頃だったか、劇場版の『機動警察パトレイバー』(押井守監督)を初めて見た時はメチャクチャ感動した。WOWOWで放送していたものを標準画質で録画して何度も繰り返し見た。そのVHSに貼ってあるシールには、ボク渾身のパトレイバーのイラストが描いてあった。最初は『1』の方が好きだったけど、今では『2』の方が好きだ。それでも、両方とも傑作であることには違いない。ボクは今でも押井作品の中では圧倒的に両作が好きだ。

 ただ、『1』には何度見てもどうにも納得できないところがある。それは、HOSに仕掛けられたウイルスに操られた機体の挙動。いくらウイルスだからって、あんなことが出来るものだろうか。レイバーが「暴走」するってところまでは分かる。でも、HOSを仕掛けられていない機体(イングラム)を敵として識別し、正確に攻撃を繰り出し、あまつさえ機体に取り付いた野明を振り落とそうとさえする。あれはもはやウィルスのレベルを超えている。

 あれが出来るためには、そもそもHOSを搭載した機体がデフォルトで(オートで)あれを出来るポテンシャルがなければならない筈。だけど、ボクの理解では、HOSってのは(AIというよりは)Windowsみたいなもんで、単なる使い勝手の良い環境統合用OSに過ぎない。そもそもレイバー自体が搭乗者の存在を前提に設計されているものだし、オペレーターがいなければ(大したことは)何も出来ないものの筈なんだ。だからこそ、HOS搭載を前提とした機体である零式にも搭乗者が必要なわけだ。ウィルスにあんなことが出来てしまうなら、搭乗者なんて必要ない筈じゃない。

 演出としては分からんこともないけど、その部分がどうしても気になっていた。そんなことを考えていたら、押井監督がこんなことを書いているのを見つけた。

 コンピュータテクノロジーの面白さというのは、コンピュータの自動律的な部分にある。コンピュータテクノロジー自体が介在する人間の意志を離れてどんどん自律していってしまう部分――そこに興味がある。
押井守『これが僕の回答である。1995-2004』p.185

 そう、彼にとってコンピュータってものが、そもそもそういうものなんだ。あれはまさに、自らの意志をもった生き物のように振る舞っていた。つまり、あれはもはやレイバーじゃなく、魂の入った人形なんだ。『Ghost in the Shell』。その原点が、すでにそこに現れていた。それはもはや理屈じゃなく、思想的なものなんだろう。論理的に考えたら、HOSのウィルスだけであのような動きをレイバーが出来るはずはないんだけれど、あれが『Ghost in the Shell』だと考えれば(作品としては)理解できるわけだ。

 それでも、ボクがまだ引っかかったところがあるのは、一言で言えばコンピュータに対する感覚の違い。彼はこんなことも言っている。

コンピュータテクノロジーそれ自体が目指す自動律としての方向は、ディスコミュニケーションしかあり得ない。だから本質的には、最近の傾向としてみられる通信ゲームとかネットワークゲームといった「コミュニケーションとしてのゲーム」のようなものが定着するとは思っていない。(中略)インターネットやパソコン通信を利用することにはいまだに興味がもてない。これがコミュニケーションの道具だと自分でも認識できれば、もっと使えるように勉強するかもしれないが、僕は本来的にコンピュータがそういうものだとは思えない
前掲書pp.184-185

 これは2000年に書かれた文章だけれど、それから十数年を経て、実際には彼が言うようにはならなかった。いまでは誰もが知っているように、コンピュータはまさにコミュニケーションツールとして発展を遂げていったんだ。

 彼の(多くの)作品に現れている「問い」ってのは、非常に単純化すると、「コンピュータも魂を持つか」というもの(言いかえれば、「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」*)。それが、彼の言うところの「コンピュータの自動律的な部分」というところに結び付いている。しかし肝心なのは、彼の作品において、それは常に人形――ヒトガタ――人の形を持って訪れるものだったということだ。
*(そこからさらに、現実と虚構、現実と夢との境界線が問題圏として浮上してくる)

 でも、現代においてコンピュータは何よりも「文字」を介して「他者」との間を繋ぐものだ。それは明らかに「形」の問題ではなく、「コミュニケーション」の問題なんだ。コンピュータは自動律のロボットではなく、何よりも人と人とのコミュニケーションをサポートするものとして発達した。

 ロボット工学が進歩したとはいえ、現代において、目のまえに現れた人がホントに人かどうかを実際的(アクチュアル)な問題として疑う人は少ないだろう。だけど、目のまえに現れた「文字」の向こうにホントに人がいるかどうかは、アクチュアルな問いとして成立する。そういうことなんだ。

 ボクは良く思うんだ。たとえボクが月世界の兎だったとして、ネットに繋いでブログさえ書いていれば、それはネットの向こう側においては「人」として認識されてしまうんじゃないかと…

 まあ、それは極端だとしても、コンピュータが自動生成でブログを書き、適当にコメやレスを行ったとしたら、それを人と区別するのは難しいんじゃないか…いまや使い古されたチューリング・テストみたいな話だけどね。でも、今のボクらには人形(ヒトガタ)に魂が宿るかどうかよりも、こちらの問いの方がよっぽどリアルなんじゃないかと思う。

 押井作品が21世紀に入って説得力を持てなくなったのは、案外、こんなところに理由があるのかも知れない。ふとそんなことを考えた。