風立ちぬ | 想像上のLand's berry

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言葉はデコヒーレンス(記事は公開後の一日程度 逐次改訂しますm(__)m)


『風立ちぬ』

2013年日本、126分

監督:宮崎駿

主演:庵野秀明

概要
 宮崎駿監督がゼロ戦の設計者・堀越二郎と作家の堀辰雄をモデルに、1930年代の日本で飛行機作りに情熱を傾けた青年の姿を描くアニメ。美しい飛行機を製作したいという夢を抱く青年が成し遂げたゼロ戦の誕生、そして青年と少女との出会いと別れをつづる。主人公の声には『エヴァンゲリオン』シリーズなどの庵野秀明監督を抜てき。ほかに、瀧本美織や西島秀俊、野村萬斎などが声優として参加する。希代の飛行機を作った青年の生きざまと共に、大正から昭和の社会の様子や日本の原風景にも注目。(Yahoo!映画より)


堀越二郎と堀辰雄、そして宮崎駿
 ボクが堀越二郎を知っているか? そうだな…この映画を見たほとんどの人よりかは知っていると思う。氏の著作はもちろん読んでいるし、本棚にあるゼロ戦に関する本だって両手の指じゃ収まらない。だけど、この映画を見た人の中には、堀越二郎本人を知っている人がいる筈だ。そう…彼は、ついこの間(1982年)まで生きていた人。

 堀越二郎が感じた風、堀辰雄が感じた風、そして時代の風。この3つの「風」が結び付くと考えた時に、この映画が生まれたのだろう。宮崎監督は当初、これを映画化する積もりではなかったそうだが、(戦争反対なのに戦闘機を愛するという)「矛盾に対する自分の答えを、宮崎駿はそろそろ出すべき」*1とプロデューサーに促されたという。であるならば、これはもうひとつ、宮崎監督自身の自伝でもあるわけだ。

 だけど、いやだからこそ、(堀越二郎という実在の人物の名を借りてこそいるものの)この映画は結局のところファンタジーだ。誰も死なないし、誰も傷つかない(それらは記号として存在しているだけだ)。ボクは、これは宮崎監督の逃げだと思う。それは最初の夢の場面からすでに明らかだ。宮崎監督が描く戦争の表象は、爆撃機から降る無数の爆弾と火の海。それは『ハウル』の時から変わらない、恐ろしくも美しい、痛みのない情景だ。

 でも、堀越が作ったものは戦闘機だ。戦闘機は爆弾を落とさない*2。そうではなく、あれは人が乗った飛行機を直接に撃ち落す。『紅の豚』でも宮崎監督はその描写を避け、ただの殴り合いにしてしまった。ページをめくれば傷が治ってしまうような、マンガ的描写によってね。この映画でも、その傾向は変わらない。『紅の豚』でも見せた、天国に昇って行くような戦闘機の描写は、とても綺麗だけど、綺麗すぎる。
*2.(零戦の後期型には爆弾が積まれるんだけどそれはまた別の話)

 宮崎監督は「この映画は戦争を糾弾しようというものではない。ゼロ戦の優秀さで日本の若者を鼓舞しようというものでもない。本当は民間機を作りたかったなどとかばう心算もない」*3と言っている。たしかに特定の偏った見方はしていないし、その点は評価できる。ボク自身が戦闘機好きだから、宮崎監督の言いたいことも良く分かる。でも、だからこそ、96式艦戦に零戦に何が起こったのか。それをきちんと見せて欲しかった。

 ボクは実際の映像を見たことがあるけれど、あれは…とても哀しく美しく、そして耐えがたく絶望的な映像だった。戦闘機が爆弾を抱えて、そして無数の弾幕に突っ込んで行く。艦艇なんか届く遥か手前でドンドンと撃ち落されていく。ボクは、その操縦席の青少年たちが容易に想像できた。特攻に使われた機体の多くがまさに零戦だったんだ。

 そもそも、宮崎監督は自分の作品を完全にコントロールすることに長けた人だ。彼の描く世界は、いつも完全にコントロールされた神話(orファンタジー)の世界だ。だからこそ、宮崎ワールド、ジブリの世界というものが展開できる。だけど、今作ではそれは不可能だ。どうしても現実世界を引き摺りこんでしまう。

 そのため、(ほぼファンタジーで展開していく前半は質が高いけれど)現実を引き摺りこまざるを得ない後半になってから一気にトーンダウンする。

 堀越自身は史実に沿って動かさなければいけないから、そこに彩りとして堀辰雄の要素を入れてくるんだけど、結局それは単にエピソードを啄んでいるだけだ。そのふたつの風を上手く調和できていない。バラバラに流れていった風を大地に帰せ(=アースでき)ていない。カタルシスの感じられない、どこかチグハグで独善的な物語になっている。

 なにより、いままで恋愛要素を避け続けてきた宮崎監督には、恋愛というものを描くことが難しかったんじゃないかと思う。彼にとって、恋愛ってのはおそらく「衝動」だ。誰かが言っていた「空からオンナノコが降ってくる」ってのが、彼の原点なんだ。出会って、魅かれて(時には旅をして)、それでおしまい。宮崎映画はいつだってそうだった。

 堀辰雄が『風立ちぬ』で描いたような、寒風の中で培っていくような愛はここには見られないし、そもそも語り過ぎで余白がない。この映画の物語には、風を感じられる余白がないんだ。ボクは、この映画は文学としては成立していないと思う。

 これは結局、宮崎監督の自己満足に過ぎない。たしかに、遺族には許可はもらったろうし、宮崎監督自身は堀越二郎と堀辰雄に最大限の敬意を払っているだろう。だけど、最終的にその2人の亡霊に足を掴まれたような印象がある。亡霊をコントロールするのは、いくら宮崎監督でも不可能だ。


風…
 アニメーションってのは「風」だ。これはただの思い付きで言っているわけじゃない。Animationがラテン語のAnima(魂)から、Animaはギリシャ語の Anemos(風/息)から来ている(こういう切り口はいかにも学者っぽくて最悪だけれど)。つまり、アニメーションってのは、息を吹きかけることで静止画に魂(息)を与えるものなんだ。パラパラマンガを思い起こせば良い。そこに息を吹きかければ、ページがめくれてキャラクターが動き出す。アニメってのは、もともと風の芸術なんだ。

 風、風、風…「誰が風を見たでしょう。僕もあなたも見やしない。けれど木の葉を顫わせて風は通りぬけてゆく」(ロセッティ「風」)。劇中でこんな詩が詠まれるように、この映画は、「風の芸術」であるアニメーションによって、いかに風そのものを表せるかということが、ひとつのテーマになっている。

 映画冒頭の霧…雲、蒸気機関車の蒸気、煙突の煙、自動車の排気ガス、薬缶から立ち昇る水蒸気、そして寒空の吐息。炎の中に舞い上がる新聞、車が止まった時の砂埃、舞い散る葉、深々と降る雪、雨、花びら…そして、帽子と紙飛行機。波立つ水面、震える木の葉、軋む窓、靡く傘、揺れる髪、遠くから聞こえる蓄音機の音。そして、煙草の煙。すべてが風の演出に関わっている。

 それらは二次元平面であるセル/レイヤーの隙間に空間をつくる。時には閉塞的に、時にはダイナミックに流れていく空気を、それらは表している。そこに画面外からの「風」が吹き込まれていく。圧倒的な情報の稠密さを持って描かれた街並みも、常に動いている。止まっていない。もちろん、作画枚数には限界がある筈だけど、とにかくアニメートすること=風を吹かせること=息を吹きこむことに、全精力が注ぎ込まれている。

 風に吹かれ、流れ流れていく世界。「その瞬間〃を全精力をかけて生きろ!」。それは、この映画の内容じゃなく、表現方法そのものが何よりも強く訴えかけている。ボクは、そこにこそ心を打たれた。内容はむしろどうでも良い。

☆☆☆☆★(4.5)