「写真2.0」(あるいは、写真という言葉の死) | 想像上のLand's berry

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言葉はデコヒーレンス(記事は公開後の一日程度 逐次改訂しますm(__)m)

「写真2.0」

 かつて、それなりに確固たるものとして存在していた「写真」。それは、光学によって像を獲得し、化学によってその像を定着するものだった。しかし、今、ボクらが「写真」と呼んでいるものは、それとは別のものだ。

 それは今や、電子工学によって電子に変換され、デジタル技術によって記録されたものを指している。画像という次元においては「写真」と他の画像との原理的区別はない。それが「写真」であるかどうかはもはや、文脈によってのみ判断されうるものになっている。写真という言葉の中身は、すでに変わってしまった。

 その上、CGIが「写真」として写真展に出展されるという状況がある。それは、単なる言葉上の問題でしかないかも知れない。しかし、重要なことは、人間が言葉で思考する生き物だということだ。だから、言葉を考える時には、その「実際の使用」を見ていかなければならない。もし、CGIに対して「写真」という言葉が用いられるようになるのならば、それは認めなければならない。

 こうして、これを認めた時、「写真」という言葉が指している中身は無限に増殖してしまう。もはや、写真を定義付けする線は失われたと言って良い。かつて、デュシャンがレディメイドを芸術に持ち込んだ時、「芸術」という言葉が内破したように、CGIを写真に持ち込んだ時、「写真」という言葉は内破してしまったのだ。こうして、「写真」という言葉は、その意味を喪失する。

 かつて、ウィリアム・J・ミッチェルは、「写真は死んだ」と述べた。写真はデジタルイメージに置き換えられてしまうだろうと。実際には、むしろ「写真」という言葉が死んだのだ。「写真」の定義が拡大されたことによって、言い換えれば、何でも写真と呼ぶことになったために、逆に人びとは「写真」という言葉を使わなくなるのかも知れない。

 より普遍的な「画像」という言葉、「実写」(現実の事物に基づいている)という言葉、あるいは、より個別的な例を指す「写メ」(ケータイで撮った画像)という言葉、「自撮り」(ケータイorデジカメで自分を撮った画像)。実際の使用に相応しい言葉だけが生き残り、「写真」のように抽象的になってしまった言葉は死すべき運命にある。まさに、かつての「芸術」がそうであったように。

 もはや、「写真」は死んだ。そこには、「デジタルカメラによって撮影された画像データ」、そして、「コンピュータ上で生成されたCGI」、あるいはその混合物があるだけだ。それは、単に画像作成法の違いに過ぎない。そして、「写真」という言葉は、昔なつかしい「銀塩写真」へと帰っていく。



 そういう状況において、ボクが「写真2.0」というフレームを維持する意義はなにか。アートワールドの話ではないけれど、それって単に制度の問題に回収されてしまうのかも知れない。