「夏曲PV考」(その4)
『世界で一番 孤独なLover』(乃木坂46)
1.時代感覚
このPVは衝撃的だった。監督が誰かは調べても分からなかったけれど、才気が迸っている…というか、むしろ才気しか感じない。流れて流れていって、その中で孤島のように舞い、そして収束していく。圧巻の映像センス/リズム。ここ数年の48グループ(+乃木坂46)の曲PVの中でも、ずば抜けて良い。
最初に見た時、パッと、「時代感覚」という言葉が思い浮かんだ。それは、2000年に『HeartBeat』(奈良沙緒理/金田美香/平田裕香)を見ていた時の感覚とも共通している。もちろん、こういう映像はいまに始まったわけじゃない。けれど、ここには時代の空気のようなものが閉じ込められている。2000年には2000年の。2013年には2013年の。それは、単に街ロケのせいだけではないだろう。
思えば、アイドルのPVってのは時代を映すものだった。野村佑香の『ペイン』。dreamの『Heart on Wave』。松下萌子の『卒業』。市川由衣の『雨』…ボクがそういう曲のPVから感じ取っていたもの。時代の空気。都市の空気。いくら曲自体が古くたって、いくら廃校でロケしたって、それらは時代を映し出していた。本来、少女たちは時代の先端を走るもの、時代の空気を映す鏡なんだ。
2.アヴァンギャルド
今のAKB48にこれが出来るだろうか。いや、きっと出来ない(唯一、まゆゆの『ヒカルものたち』がそれを感じさせるくらい)。それって一体なんだろう。同じ秋元康プロデュースで、なぜ乃木坂46に出来ることがAKB48に出来ないのか。
思えば、AKB48も、『制服が邪魔をする』の頃には、こうした雰囲気を持っていた。それは何とも表現しづらい感覚なんだけど、「時代の先端を走っている」という感覚。ラディカル、あるいはアヴァンギャルドと言い換えても良い。これから時代を作り出していくものだけが放てる光がそこにはあった。
それがいつの間にか、AKB48から失われていた。大人たちが支配する社会を突き刺すような、あの眼差しが失われていた。それこそがモーニング娘とAKB48を区別するものだったのに、現実から切り離された芸能界で、いつしかアクチュアルな時代感覚が失われていった。染み付いたタレント臭。もはや、かつてのように街に溶け込むことはできない。今のAKB48からは、都市の匂いよりは、むしろドブ板の匂い(あるいは週刊誌の紙の匂い)がする。それが良いことなのか悪いことなのかは、ボクには分からない。
AKB48はアイドルを民主化した。それ自体はきわめてラディカルなことだった。アヴァンギャルドなものだけが芸術でありえる時代のなかで、しかし、民主化は時に保守化への道を開く。ファンの意見が先にあるから、チャレンジ出来なくなってしまう。変えられなくなってしまう。結局、著名監督の権威を借りて、PVの目先を変えることぐらいしか出来ない。今のAKB48を取り巻く環境には、アクチュアルな時代感覚が決定的に欠けている。それは、アヴァンギャルドとは程遠い。
『UZA』や『ギンガムチェック』の海外監督(名前忘れた)や、『So long!』の大林宣彦、『ヘビロテ』、『さよクロ』の蜷川実花。名前だけ見れば一流のクリエイターたち。だけど、彼らは「もはや時代に遅れた人たちだ」ということを、他ならぬAKB48のPVで証明してしまった。彼らは、アイドルを自分の型にはめることしか出来ない。何も見ちゃいないし、何も見えちゃいない。
『世界で一番 孤独なLover』のPVが素晴らしいのは、それが乃木坂46でしかできないことだからだ。まいやん[1:08-]センターでしか出来ないことだからだ。生駒ちゃん[1:14-]だと、また別の意味で「土の匂い」がしてしまうだろう。まいやんだって地方出身だから、それは出身地の話とはまた少し違う話だ。生駒ちゃんから「土の匂いがする」ってのは間違いなく褒め言葉なんだけど、でも、都市の感覚、時代の空気を映すためには、まいやんセンターは正しい選択だった。彼女には、良くも悪くも無味無臭なところがある。
孤島ダンスでは、れいか[0:52-]の場面が一番カッコイイ…というより、あれは美味しすぎる。いくちゃん[0:42-]の表現力、なぁちゃん[1:33-]のクールさも特筆すべきだけれど、出番が少ないまりっか[1:01左端]の存在も地味に効いている。あの子は、篠原ともえからPerfumeへと連なるテクノガールの系譜を受け継げるような資質を持っている。
(逆に、さゆりん[0:29-]みたいにアイドル性が高い子は、このPVでは必ずしも真価を発揮できていない。それはたぶん、AKBではこのPVが撮れないのと同じ理由=タレント臭の強さ…。このPVみたいに、ひとりくらいだったらポイントになって良いんだけどね)
なにより、ななみん[0:24-]の存在は圧倒的だ。彼女は月9に出演するから話題を呼ぶだろうけれど、一気に突き抜けていっても不思議じゃない。あの子は何か特別なものを持っている。何よりも、あの目。誰も信じちゃいないような、それでいて、どこか寂しげなあの目が素晴らしい。あの目は時代を貫く。かつてのAKB48がそうであったように。
3.パロディ
一方、もはやアクチュアルな時代感覚とは切り離されてしまったAKB48は、自己言及化していくしかない。繰り返されていく物語の中で、AKB48自体の歴史が前景化されていく。それは、自己のパロディ化という事態に他ならない。
キンタローがあっちゃんをパロディ化したけれど、あれは、じつは、あっちゃん自身がもはや「前田敦子」のパロディであるということを明かしている。アントニオ猪木本人を見ても、もはや「アントニオ猪木」のパロディにしか見えないのと同じことだ。ここで起こっているのは、アニメ『AKB0048』が表しているように、AKB48のメンバーがキャラクター化していくという事態。そう、まるでディズニーキャラクターのように。
ディズニーランドの着ぐるみが、ディズニーキャラクターのパロディでしかないのと同様に、AKB48の「制服」も、もはやAKB48自身のパロディでしかない。それは、年齢云々とはまったく別の話だ。いくらディテールにこだわったとしても、宝塚の衣装が現実の18世紀フランスとは何の関係もないのと同様に、AKB48の「制服」も、もはや現実とは何の関係もない。AKB48の「制服」は、いまやAKB48自身にしか言及しない。
ディズニーランドがディズニー世界のパロディであるように、AKB48がもはやAKB48のパロディでしかないということ。そこには、「夢の国」があるかも知れない(し、そこにハマってしまう人もいる)けれど、それは、もはや現実世界とは何の関係もない。
かつて、クリエイターとは、現実の真の姿を捉え、それを解釈し、鑑賞者に見せることで、鑑賞者の目を現実の真の姿へと見開かせる存在だった。しかし、クリエイター⇒鑑賞者という構図を否定した「現代芸術」では、もはやその構図が機能しない。
したがって、ある種の「現代芸術」は、いまや「参加型」のテーマパークになってしまった(cf.インスタレーション)。対象のレベルで現実を主題化できないとすれば、結局は自己を現実のパロディとしてパロディ化してしまうしかない。そして、テーマパークこそ、まさに現実のパロディに他ならない。AKB48もまた、「参加型」を志向した結果、現実のパロディ=テーマパークと化してしまった。
最近、騒がれる「次世代」というのは、単に後継者探しということではない。あれは、失われた時代感覚をテーマパークに放り込むことで「予定調和」を崩し(自己完結型の回路を解放し)、時代にキャッチアップしていくための戦術なんだ。でも、「次世代」もまたキャラクター化する。AKB48は、まるでイタチごっこのように、自分の尻尾を追い続けている。予定調和が崩れることすら、予定調和と化していく。
そして、ボクはもういちど、すべてを反転させよう。かの悪名高きボードリヤールは、彼らしい表現で、こう述べている。
ディズニーランドとは、実在する国、実在するアメリカすべてが、ディズニーランドなんだということを隠すために、そこにあるのだ。
ジャン・ボードリヤール『シミュラークルとシミュレーション』
いつしか、現実そのものが現実のパロディになってしまった。そんな時代の中で、AKB48は自らをパロディ化することで逆説的に現実に言及する。
結局、乃木坂のPV考になってなかったな…でも、そんなことを考えさせるくらい、このPVは衝撃的だった。
今回の登場メンバー:まゆゆ(渡辺麻友)、まいやん(白石麻衣)、生駒ちゃん(生駒里奈)、れいか(桜井玲香)、いくちゃん(生田絵梨花)、なあちゃん(西野七瀬)、まりっか(伊藤万理華)、さゆりん(松村沙友理)、ななみん(橋本奈々未)、あっちゃん(前田敦子)、かずみん(高山一実)
P.S.
あ…八福神の中でかずみん[1:38-]にだけ触れ損なった(^_^;)>