『言の葉の庭』(追記) | 想像上のLand's berry

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言葉はデコヒーレンス(記事は公開後の一日程度 逐次改訂しますm(__)m)


 『言の葉の庭』のレビューで、ボクはしきりに「表現に統一感がない」ということを気にしていました↓

描写スタイル、画面の解像度が統一されていないのが、ものすごく気になってしまう。

とにかく、背景の絵柄が統一されてないのがヒドイ。それも、ある場面と別の場面とで絵柄が統一されていないだけじゃなくて、同じ場面の中で絵柄が統一されていないんだ。

 それって、なんだろうな~…と思っていたところ、次のような新海さんのインタビューを見つけました。

(新海監督は)今作は自らコントロールした部分と各スタッフのビジョンがにじみ出ている部分があると明かす。冒頭のシーンは劇中よりも抽象的なイメージを構想していたそうだが、「写実的になることは必ずしもマイナスじゃないんですけれど、もう少しシンプルにやりたかった。でも、スタッフが頑張ってできたものを見てみたらすごいし、集団作業は自分が思い描いていた通りに仕上がるわけではないんですよね。そこが面白い」と醍醐味を語る。

 ここでは「醍醐味」とか書かれていますが、このインタビューが意味するものは、たったひとつだと思います。それは、新海さんがスタッフをコントロール出来ていなかったということです。

 今作では写真的な描写がチョクチョク混ざってくるのですが、ボクは、それがものすごく気になっていました。たとえば、レビューで「解像度が統一されていない」とか、「ほとんど写真をそのまま貼ったかのような描かれ方」とか、さらに追記で「写真みたいに見えてしまうってことは、逆に劣化」とか書いているのは、まさにそれですね。

 このインタビューを読んでみて、それがどういうことだったのか、はっきり分かった気がします。新海さんいわく、「写実的になることは必ずしもマイナスじゃないんですけれど、もう少しシンプルにやりたかった」。要は、それはもともとの新海さんの構想とは違うものだったのです。

 新海さんは、それが「集団作業の面白さ」だと考えているみたいですが、たとえば宮崎さんの映画で、このような表現の不一致…言い換えれば、「表現の破綻」が出てくることは、まずありえません。監督のイメージをスタッフが共有できていないというのは、単に新海さんのマネージメント能力の欠如を物語るものでしょう。

 ですが、ボクは逆に少し安心しました。今作において、映像表現が破綻しているのは、新海さんの映像センスがなくなったというよりも、むしろ、マネージメント能力、スタッフとの連携の問題だったわけですから、

 それはつまり、新海さん個人で作れば、いまだに「あの」(ボクが圧倒される)新海描写は作れるということでしょう。予告編では表現が破綻していないように見えるのは、あれは新海さんが全編をコントロールできているからだと思います。

 たしかに長編をコントロールするのは難しいでしょうが、そもそも新海さんは、前作までは、それが出来ていたわけです。今作では、新しいスタッフと組んだために、新海さんのマネージメント経験不足がモロに出たということでしょう。

 だから、ファンは、いやファンだからこそ、今作の映像表現を絶賛するのはどうかと思うのです。だって、本人が認めているように「新海さんらしさ」が失われてしまったのが今作なのですから。それを認めてしまうことは、新海さんの作家性に傷を付けることでしかありません。

 「やっぱり、新海さんが全てをコントロールしなければダメだな」という風にレビューの方向性を誘導していくのは、制作サイドやスポンサーに対するメッセージになりますし、新海さんの作家性を守ることにも繋がる筈です。

 ボクらは、スタッフとの「妥協の産物」みたいなものを新海さんに求めていただろうか?いや、少なくともボクはそうではありません。今作を見て、それがハッキリと分かりました。