『前田敦子はキリストを超えた:〈宗教〉としてのAKB48』 | 想像上のLand's berry

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言葉はデコヒーレンス(記事は公開後の一日程度 逐次改訂しますm(__)m)


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『前田敦子はキリストを超えた:〈宗教〉としてのAKB48』
濱野智史
(2012)

内容紹介
 AKB48の魅力とは何か? なぜ前田敦子はセンターだったのか? 〈不動のセンター〉と呼ばれた前田敦子の分析から、AKB48が熱狂的に支持される理由を読み解いていく。なぜファンは彼女たちを推すのか、なぜアンチは彼女たちを憎むのか、いかにして彼女たちの利他性は育まれるのか……。握手会・総選挙・劇場公演・じゃんけん大会といったAKB48のシステムを読みとくことから、その魅力と社会的な意義を明らかにする。圧倒的情熱で解かれる、AKB48の真実に震撼せよ!(Amazonより)



感想
 著者の濱野さんは、気鋭の社会学者であり、ボクも彼の著作とその明快な議論には感銘を受けている。濱野さんや宇野常寛さんがAKBを語るということは、ボクはかなり大事なことだと思っている。論壇があまりにも保守的すぎては面白くない。だけど、この著作は外れだ。


1.前田敦子はキリストを超えた?

 AKBは宗教だってのは、ボクも感じていることだし、はっきりと命題を打ち立てたことで見えてくるものもあるだろう。だけど、この命題はどう考えても失敗だったと思う。『前田敦子はキリストを超えた』という命題。そこに、どうしても無理が出てくる。

 濱野さんは、アンチに晒され続けたあっちゃんが、それでも立ち上がる姿と、そこから発せられた「利他性」の精神(「私のことは嫌いでもAKBのことは嫌いにならないで下さい」)にキリストを見るわけだけど、そうしたある種の類似性は、「超えた」という言葉には直接には結びつかない筈だ。

 それはおそらく彼も理解していて、ところどころで、「いや少なくとも控えめにいってもキリストのような(中略)「利他性」と「超越性」が、あっちゃんには宿っている」(p.34)とか言っていたりする。

 そうなってくると、この章の最後で導き出される「AKBはリトル・キリストを生み出し続けるシステムだ」という結論をどう見るのかという問題が出てくる。つまり、

①.「リトル・キリスト」の一部としてあっちゃんを見るのか、それとも、

②.あっちゃんだけは「キリストを超えて」いて、後継のセンターたちは「リトル・キリスト」に過ぎないと見るのか。

 一見、『前田敦子はキリストを超えた』という命題を見る限り、後者のように思うかも知れない。だけど、あっちゃんだけが「キリストを超えている」ということになると、当然、優子の問題が出てこなきゃおかしい筈なのに、ここでは優子の問題は論じられていない。

 これ実は、濱野さんは前者の立場(あっちゃんも「リトルキリスト」の一部)なんだと思う。現に、「あっちゃんのような小さなキリスト的存在」(p.178)と言っていることからもそれが分かる。では、『前田敦子はキリストを超えた』とは、実際にはどういう意味を持つのか。彼は言う。

「AKBはキリスト教を超える可能性がある。それはいってみれば、一神教への信仰による世界平和とはまったく違う道である(中略)いうなれば民主的に超越者を決める多神教。それがAKBという<宗教>なのである」(p.178)

 そうなると、結局のところ、『前田敦子はキリストを超えた』っていうのは、「多神教は一神教より優れている」くらいの意味しか持ってこないことになる。だから、これは本来はシステム論のはずなんだけど、このタイトル/命題によって、どうしても、「あっちゃん個人」という問題を引き込まざるを得ない。

 あっちゃん個人のキリストとの類似性。そして、システムとしてのAKBの(キリスト教に対する)優位性。(それぞれが本当にそうかはともかくとして)この2つをごっちゃにしてしまったことで、議論の整理に失敗しているような印象がある。インパクト重視だってのは分かるんだけど、結果的に、中身もそれに引き摺られ過ぎてしまったのではないか。

 むしろ、「AKBはリトル・キリストを生み出し続けるシステムだ」というシステム論に的を絞った方が、ボクなんかはすんなりと受け入れることができる。濱野さんはもともとアーキテクチャ論とかやっていて、システムの方から切るのが得意なわけだから、そっちを主題にした方が良かったとも思う。


2.近接性

 第三章以降は、濱野さん自身の体験に基づいて論を進めていくわけだけど、本人も「主観的」という言葉を使っているように、どうしても前のめりの議論になっているのが気にかかる。まあ、ぱるるが好き過ぎて論が先走っちゃうところなんかは、微笑ましいんだけれど、正直、自分の体験を普遍的なものとして一般化するのに失敗しているように思う。

 たとえば、AKBは「近接性」と「偶然性」に支えられていると彼は言う。握手会や公演でのメンバーとの距離の近さ、そして、BINGOで決まる公演の席決めで推しが決まってしまう--座席の位置によって目が合いやすいメンバーは違ってくるから--というような偶然性がそれだ。

 だけど、そのどちらもボクは経験していない。いや、もちろん、濱野さんが言うことも分かるし、ややこじつけ気味な「偶然性」はともかく、「近接性」はAKBを駆動させてきた大きな原理だとボクも思う。

 でも、きっとそれだけじゃない。だってそれなら「私たちの方が会えますよ」と劇場前で売り込みをかける地下アイドルの方が「近接性」を持っている筈だし、ファンはみんなそっちに流れていく筈だろう。でも、必ずしもそうなってはいない。

 だから、それだけではないはずなんだ。なんでAKBが強いのか、なんで「近接性」に(ほとんど何ら)興味を抱かないボクが、いつまでもAKBにくっ付いているのか、濱野さんの議論ではその辺りが説明できない。

(ちなみに、ボクはそれを「関係性消費」という言葉で説明する。濱野さんも「関係性」という言葉を使うけれど、それはメンバーとファンとの「関係性」というところに重点がある言葉だ。ボクはそれを認めるけれど、でもそれは半分でしかないと思う。

 もう半分はメンバー間の「関係性」だ。メンバー間の関係性はキャラ立ちを助け、そして個人の特徴を把握しやすくする。たとえば、あやちゃんの「ぼっちキャラ」なんてのも「関係性」の一部だ。そして、メンバー間の関係性/ファンとメンバーとの関係性が「物語」を駆動させる力になっているというのが、今のボクの理解)

閑話休題


3.アイドルの二つの身体

 ちと話が逸れた。そもそも、濱野さんは現在の事象を捉えきれていないんじゃないかと思う部分もある。まあ、元ネタが書かれたのが約10ヶ月くらい前なんだから仕方ないんだろうけど。たとえば、彼はあっちゃんの例を参考に、こんなことを述べる。

 「AKBのメンバーたちがネット上での匿名のアンチに耐えられるのは、リアルの現場でのヲタからの承認の声を存分に浴びているからだ」(p.79)

 つまり、「ネットでの匿名のアンチ」に晒され、そして、「現場での応援」でそれを乗り越えていく、という構図だ。

 もちろん、そういう側面はあるだろう。ボクは、決してそれを否定しようとは思わない。彼女たちが、どれだけ「現場での応援」に感謝しているか。それは、現場にいかないボクですら、ひしひしと感じられるものだ。

 でも、いま起こっているのはむしろ逆の事態だ。握手会で悲しい言葉を投げかけられ、耐えられずに辞めてしまったかんちる。そして、さっしーや茉夏や(彼の愛する)ぱるる、そして古畑ちゃんなど…、ぐぐたすやブログで苦しい胸の内と「願い」を吐き出すメンバーは枚挙にいとまがない(彼女たちが実際にどういう言葉をかけられたのか、ボクには知るよしもないけれど)。

 ボクの議論で云えば、ネットで現れたものは現実世界に顕在化する。言ってみれば、「現実は常に一度シミュレートされたもの」なんだ。だから、濱野さんが言うような「ネット」と「現実」という二項対立の構図は崩壊せざるを得ない。ネットで叩かれた人は現実世界でも叩かれてしまう。

 そして何より、面と向かって罵倒されるのは、ネットで匿名のアンチに晒されるよりも遥かにダメージが大きい。直接アンチに晒されれば、そりゃ誰だって辛いだろう。アイドルだって人間なんだ。そして、こうした握手会での出来事で明らかにされているのは、「アイドル」と「人間」という二つの極の間でもがき悩む彼女たちの姿だ。

 濱野さんは、「アイドルの二つの身体」という言葉を使う。それは正しい。だけどそれは、彼が言うところの、「リアルの身体」と「ネットの身体」という意味ではない(その2つの区別は、上でも述べたようにすでに消失している)。

 むしろいま、ここで現れている「二つの身体」とは、「アイドル」と「人間」という二つなんだ。そして、「アイドル」と「人間」という、その二つの身体の間での「葛藤」が表層化してきたのが、現在の48グループであり、握手会での出来事はそれを象徴している。

 これは必ずしも、「直接攻撃」の問題に限らない。たとえば、「アイドル」古畑ちゃんは握手会での古畑ジャンプを続けたいだろう、でも、「人間」である身体は、時にそれにブレーキを掛けてしまう。5部(7時間半)もジャンプをし続けるのは誰だって辛い。それでもジャンプをし続ける彼女は、もちろん賞賛されて然るべきなんだけど。

 そして、この「アイドル」と「人間」という問題は、また別のところにも現れてくる。典型的なのが「恋愛禁止」の問題だ。そして、これをもっとも極端な形で具現化して見せたのが、例の坊主事件だろう。あれは、「人間=女性」であることを選んだ筈のアイドルが、女性であることを捨てることによって、アイドルとしての再起を図るという象徴的な事件であった(それが良いか悪いかは別として)。

 だから、これはまた同時に(みぃ推しだった)ボクの「葛藤」でもある。


4.葛藤

 「アイドルというのはこうでなければならない」というのは、ボクのアイドル好きとしての理念の問題だ。ボクはそれを放棄する気はない。だーすーのように、本当にプロフェッショナルにアイドルに徹してしまえる子には、尊敬の念すら覚える。

 だけど、その一方で、たとえば今だったら、総選挙を辞退しようが何だろうが、「茉夏が良いんだったら、何よりそれが良い」と言ってしまいたい気持ちがある。茉夏が辞めてしまうくらいだったら、その方が百倍もマシなんだと。

 ボクには常に、その二つの極の間で葛藤がある。彼女たちがアイドルであること。そして人間であること。

 ボクは、AKBを宗教として見ることには反対しない。でも、あまりにも大きなものを背負わせてしまって、彼女たちを潰してしまうのはボクの願いではない。アイドルであるということは、それ自体、とても素晴らしいことだけど、あっちゃんも他の誰もキリストを超えてはいないし、また超える必要もない。



今回の登場メンバー:あっちゃん(前田敦子)、優子(大島優子)、ぱるる(島崎遙香)、あやちゃん(柴田阿弥)、かんちる(篠原栞那)、茉夏(向田茉夏)、さっしー(指原莉乃)、古畑ちゃん(古畑奈和)、みぃ(峯岸みなみ)、だーすー(須田亜香里)