AKB48論vol.いくつか | 想像上のLand's berry

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言葉はデコヒーレンス(記事は公開後の一日程度 逐次改訂しますm(__)m)


『AKB48論』

1.物語消費

 かつて、大塚英志さんは「物語消費論」を唱えました。80年代以降の消費者は、断片としての「小さな物語」の背後に「大きな物語」を見て、それを消費していると言うのです。

 ここで典型的な例として挙げられるのがビックリマン・シールです。商品としてのビックリマンには、個々のシールに書かれた細切れの情報(=小さな物語)しか提供されていないのですが、子どもたちはその背後にある「大きな物語」を勝手に読み込み、それを消費していくのです。

 ひるがえせば、それは制作者側も「大きな物語」を意識して設定しているということになります。これを作品として極限まで推し進めたのが『新世紀エヴァンゲリオン』ということになるでしょう。数多くの謎本を生んだこの作品は、まさにファンたちが「大きな物語」を消費することで肥大していったのです。

 しかしながら、それが最大にまで膨らんだ地点で、『エヴァ』は、個人の問題という「小さな物語」に収斂せざるを得なかった(TV版最終2話)。東浩紀さんなどは、それを虚構(としての大きな物語)の時代、偽史の時代の終わりと見なすわけです。


2.大きな物語の欠如

 それから十数年。『涼宮ハルヒの憂鬱』や『けいおん』など、0年代~10年代を代表するアニメからは、中心となる「大きな物語」がスポッと抜け落ちています。

 たとえば、『ハルヒ』は、宇宙人、未来人、エスパーなど、かつてSFが「大きな物語」を語るのに必須だった諸要素を備えていながら、それらの設定の間には、ほとんど整合性がなく、「大きな物語」を読み込むことが不可能な構造になっています。それは、中心(大きな物語)がスッポリと抜け落ちた、いわばドーナッツのような構造の作品です。あるいは、現代的に「ネットのような」と言い換えても良いかも知れませんが。

 さらに『けいおん』に至っては、もはや「大きな物語」のフリすらなくなり、ただただ、個々の「小さな物語」が語られていきます。そして、消費者であるファンは、個々の登場人物の関係性(小さな物語)それ自体を消費していくのです。ひらたく言えば、「あずにゃんに萌えるゆいに萌える」ってことになります。ある意味で「萌え」は、「大きな物語」なき世界において、物語を駆動させる力として機能しています。


3.関係性消費

 これは、AKB48グループにおいても同じことが言えます。AKB48には、その中心となるべき「大きな物語」が存在しません。背後に何かを読み込もうとしても、それは読み取り不可能なのです。どういうことか。

 たとえば、かつてだったら「○○というアイドルグループは、じつは仲が悪い」というような、大上段のゴシップネタが良くありました。しかし、AKB48グループでは、その言葉はほとんど意味を持ちません。なぜなら、100人規模のグループにあっては、仲が悪いも何も関係ないからです。48グループ全体として見れば、ほとんどロクに話したことすらないメンバーが大半なのが実情でしょう。

 ですから、ここでもファンは、各メンバー間それぞれの小さな関係性(小さな物語)を消費していくことになります。たとえば、ボクが「きょんちゃんと奈和と時どき花音」*1のような記事で書いていることが、その典型例です。また、キャラ付けというのも、その一種でしょう。それはすなわち、他のメンバーとの「差異化」に他ならないからです。他のメンバーと差異化を図るということは、それ自体が関係性の一部です。

追記.1
 (もちろん、かつてもメンバー間の関係性を分析するような消費傾向はありましたが、AKBにおいては、それがグループ全体の記述とダイレクトに結びつかないところが異なります。たとえば、「あるアイドルグループの○○と△△の仲が悪い」という小さな物語が、「あのアイドルグループは仲が悪い」「アイドルグループとは仲が悪いものだ」といった全体の記述にそのままスライドしていくということが、AKBでは不可能だということです。したがって、個々の関係性という「小さな物語」それ自体が消費される傾向が強くなります。そして、これを可能にしているのがネットによる情報化社会です)

 関係性を消費するということは、「やおい」に萌える女の子たちの消費傾向として語られていました。しかし、いまやそれは男の子にも当てはまります。これは、ジェンダーのフラット化によって出てくる当然の話なのかもしれません。

 (精神的に)去勢された男の子たちは、もはや対象の所有ではなく、その関係性に萌えるようになります。ここでは、「所有」はむしろ否定されるべきものです。なぜなら、所有するということが、関係性それ自体の破壊を意味するからです。この文脈において、「恋愛禁止」は、「やおい」的なものに対する掟破りを阻止するためのルールとして理解することが出来るでしょう。

 そして、究極的には、ここにファンとの関係性も含まれてきます。ファンはメンバー間の関係性と同時に、メンバーとファン自身との関係性をも消費するようになるのです。そのため、何の利益もないのに(=所有できないのに)何万何十万とお金を使って投票したりします。それはつまり、アイドルとファンという関係性それ自体が消費されていると考えることができるでしょう。

追記.2
 (AKB48の卒業メンバーが、個々のソロ活動では、必ずしも上手くいかないのは、ソロ活動では、そうした「関係性消費」が難しくなる点に由来するのかも知れません)


4.中心の不在

 ちと、話が逸れました。AKB48グループにおいては、「○○というアイドルグループは△△」という形式の言説が通用しないということ。それは、AKB48グループ全体を記述する言葉がないということを意味しています。Wikiで「AKB48」を検索してみても、AKB48については、ほとんど何も分からず、むしろメンバーそれぞれのWikiを見た方がはるかにイメージを掴みやすいという事態が、それを説明しています。

 つまり、「AKB48」という「大きな物語」が存在しているのではなく、そこには、個々のメンバーが抱える「小さな物語」の束があるだけなのです。そして「AKB48」は、その「小さな物語」が集積する「場」として、そこにあるに過ぎません。

 中心となるべき「大きな物語」が存在しないこと。読み込むべき「背後」が存在しないこと。これは、AKB48グループに興味の無い人が外から眺めるのと、ファンとして内から眺めることの差にも繋がります。外から見ると、一見、「AKB48」という大きな流れ、大河があるように見えますが、内から見れば、じつはそこには無数の小さな流れがあって、それが大河に見えているだけなのです。

 中心がないということは、すなわち、AKB48グループのメンバーは「外に置かれたアイドル」だということにも繋がります。つまり、彼女たちは、お城の中の姫君のように「隠された存在」ではなく、むしろフェアリーのように、ファンの間に漂って見え隠れする存在だということです。

 彼女たちが「外に置かれている」ということは、たとえば、自らが所属するチームを、ファンと同じタイミングで知るということなどに端的に現れます。また、もっと極端な例では、卒業メンバーの発表をファンからのコメントで教えられたりするわけです。そして、このように「外に置かれている」ということが、ファンとの心理的な距離の近さを演出します。

 しかし、こうした演出を行なう運営が物事の中心にある、と考えても事態を見誤ります。秋元康さんが「(AKB48は)僕の手の届かない存在になった」と言っていることや、さらには、総支配人がキタリエのチームK2移籍を知らなかった(?)ということが、このことを示しているでしょう。端的に言って、それ(中心)は不在なのです。

 誰も全体を把握できない。中心の意志によって駆動されているのではなく、無数の個々の関係性によって駆動されていく。融通無碍に形を変化させていきながら、道無き道を進んでいくかのような、まるで姿の捉えられない存在、「それがAKB48というアイドルグループです」。



AKB48 バラの果実