「繰り返し、繰り返し、云いたいこと」
原発関連(というより、原発を取り巻く言説)についての記事は、最近もいくつか思いついて、頭の中では出来上がっていたのですが、すべて見送ってきました。批判的なことばかり書いても詰まらんし、読んでも気分が悪くなるだけだろうなと。好きなことについての記事を書いていた方が、ボク自身も気分が良いですし(* ̄艸 ̄)
目の前では、キラキラとした照明の中で、くーちゃんがサヨナラを言っています。ボクは、この記事を何度も破り捨てようとしました。チームSの卒業公演について書いた方が、よほど良いのじゃないか…ただ、やっぱり思うところがあって、残しておくことにしました。今回は、ボクの単なるストレス発散記事だとお考えください(言ってる内容は過去の原発関連の記事と同じです)<(__)>
ことのきっかけは、『東通原発「活断層はない」東北電力が反論』という一連の記事でした。それに対するネット上の反応は、まあ予想がつくでしょう。「自分たちのいいように解釈してるだけ。安全性を考えないので金儲けに走るのはどこの電力会社も一緒」。そんな類の言説に、ボクはウンザリしてしまうのです。まあ、見なければ良いだけの話ですけどね←スルー力(笑)
100歩譲って、「自分たちの都合のいいように解釈してるだけ」だとして、それの何処が悪いのですか。反論したければ徹底的に反論すればいいではないですか。それが民主主義の根本なのですから。何度も書きますが、何度だって書きますが、どんな「悪人」ですら裁判では自己弁護の機会が与えられます。「悪い奴らは黙ってろ」という言説は、ボクには到底、受け容れられるものではありません。
今冬、オウム関連の資料を読んでいた時に、ある文章が気になりました。江川紹子さんが1995年頃に書いたものなのですが、彼女は、オウムを擁護した宗教学者の島田裕巳さんを名指しして、「彼の名を忘れないようにしよう」と糾弾しているのです。「悪いオウムを擁護するなんて言語道断」ってわけです。それでは、まるで「魔女狩り/赤狩り」ではないですか(毎度、同じこと言ってるようですけど)。
この「論じるまでもない、断罪せよ」という風潮は、とりわけ原発事故直後において見られたものでもありました。社会学者の大澤真幸さんは、その著書『二千年紀の社会と思想』の中で、「原発問題は偽ソフィーの選択である」というテーゼを主張しています。ソフィーの選択とは、
ウィリアム・スタイロンの小説を原作にもつこの映画で、主人公のソフィーは、ある不可能な選択の前に立たされる。彼女は、ナチス支配下のユダヤ人で、2人の子どもをもっている。あるとき、ナチの将校が、彼女に、2人の子どものうちのどちらかを選べ、と迫る。選ばれなかった方の子どもは、ガス室に送られ、殺される。もし彼女がどちらも選ばなかったときには、子どもは2人ともガス室に送られる。彼女はどうしたらよいのか?
というものです。これは、もっとも難しい倫理学的問題であり、この映画の主人公ソフィーは結局、発狂に追い込まれてしまいます。大澤さんは、原発問題は、一見この「ソフィーの選択」のように見えるけれど、じつはそうではない=偽ソフィーの問題だと結論づけます。すなわち、
強盗は、子どもかエアコンのどちらかを寄こせ、という。強盗は、ソフィーがどちらも拒むのであれば、子どもを殺し、エアコンをぶっ壊してしまう、と脅迫する。彼女はどうすべきか。(前掲URL)
このような種類の問題であるのだと言うのです。この二つを天秤に掛けて迷う人なんていない。だから悩む必要はない。エアコンを差し出せってわけです。だけど、2011年4月時点の世論調査を見ると、そうはなっていない。そのため、
偽ソフィーは、子どもにしようかエアコンにしようか、そうとうに迷っているのだ。子ども(原発消極派)は、エアコン(原発積極派)を圧倒できずにいる。(前掲URL)
と、彼は言います。そして、それは何故だろう?と悩んでしまうわけです。しかし、それは彼が問題を単純化し過ぎているからです。そりゃあ、その場面だけを見るのならば、迷う余地なんてないように見えるかも知れない。しかし、人びとが迷ってしまうのは、その天秤にはもっと色んなものが掛かっているからです。
そもそも、片方がエアコンで、片方が子どもという設定がおかしい。エアコンが原発積極派だという設定にするのなら、エアコンを壊したらその冬を越せない可能性や、代わりに暖炉に火を入れたら薪代が嵩んで一家離散とか、そういう可能性も考えなくてはならない。つまり、子どもは、実際には両方の天秤に掛かっているのです(しかも、もう片方の天秤に乗っかっている子どもが、本当に危険なのかも吟味しなくてはならない)。「自分たちは子どもを愛していて、彼らは子どもを愛していない」という言説は、フェアではありません。
2011年頃には、東浩紀さんも似たような趣旨の発言をしていました。彼もまた、原発事故後の世論調査に「絶望した」と述べています。その頃、彼は「この国は終わった」と言っていました。そんな東さんは、震災後に伊豆に「避難」していました。これについての彼の言い分は、「誰も(ホントに危険かどうか)分かってないんだから、リスク管理で逃げた方が良いんだ」というものでした。ボクは、そのことについてとやかく言いたいわけではありません。それは彼の判断です。
ただ、一方で<みんなが逃げちまったら、社会が成り立たなくなる>と思うのも事実です。社会が崩壊すれば、その被害は原発事故の比ではないでしょう。「その理屈で民主党政権は、事故詳細の公表を遅らせ、そのために被害が拡大したんじゃないか」という反論もあるかも知れません。それも確かにひとつの側面です。ボクはそれを否定する積もりはありません。
ボクがここで言いたいのは、(これも何度も繰り返してきていることですが)とにかく、すべてのメリットとデメリットをテーブルの上に並べる「努力」をしろと。その一点につきるのです。大澤さんは、先述の「偽ソフィーの選択」に関して、
答えは、あまりに簡単である。百パーセントの人が、子どもを取り、エアコンの方は強盗にあげてしまえ、と答えるだろう。迷いはない。(前掲URL)
と述べているのですが、その「考える余地がない」ということをまず疑って欲しいのです。「ホントにそれはそうなのですか?」と。物事をひとつの側面からだけ見れば答えは簡単です。原発は事故れば放射性物質を排出する。だったら停めれば良い。原発が事故った。だったら、とにかく遠くに逃げれば良い。答えは簡単です。それ以外の判断はないように見える。だけど、社会はそういう風には出来ていないのです。
ボクは、いつだかの『朝まで生テレビ』の、とある場面が忘れられません。「とにかく遠くに逃げてください」という(山本太郎さんを初めとした)脱原発派の方々に対して、福島在住の方が、「そうは言うけれど、私たちはここで暮らしていくしかないんだ。そういう人たちのことを考えてください」と仰っていたのです。その方は、小っちゃいお子さんを連れたお父さんでした。
とりわけ脱原発派の方には、「バカな親だ」と思われるかも知れません。しかし、それは彼が、様々なメリット・デメリットを必死で考えた末に出した結論なのです。「ここで生きるしかない」。その判断が正しいかどうかを見極めるのは、そんなに簡単なことではありません。
たとえば、お子さんが放射線の影響で亡くなってしまったら彼の判断は誤りだったということになるでしょう。でも、散々言われているように、ある一定以下の放射線リスクは測定できるものではありませんし*1、引っ越しすることによる精神的負担、新たに仕事を探さなければならないことによる経済的負担もまた、天秤にのせなければなりません。
(*1.この言葉でボクは「放射線リスクがない」と言っているのではありません)
社会学者が言うほど、物事は単純じゃないんです。…って、ただの一学生に過ぎないボクが言っても何の信用ないですね。3.11では、理系の学者が信用を失ったと思われています。「専門家」を連れてきても、それぞれに言うこと(学説)が違うということに、皆が気付きました。たしかに、彼らは万能ではありません。科学は未だ発展途上ですし、その未来に完璧な科学が現れるとも限りません。
しかし、ボクは、何より、「決めつけてしまう」(その上、なんの役にも立たない)人文系の学者/作家たちに失望しました。そして、ボク自身がそれを目指しているということに耐えがたい嫌悪を覚えます。分からないことは「分からない」と言えば良い。しかし、せめて一度、立ち止まって考えて欲しいのです。「考える余地などない」「原発は廃止するのが正しいに決まってる」。…しかし本当にそうか、と。
ボクは(現状)原発はオプションとして必要だという立場ですが、別に自分が正しいと言う積もりはありません。何度も言うようですが、何度も何度も言うようですが、とにかく、メリットとデメリットをすべて出し合って話し合いましょうと。相手の反論の機会を奪ったって何にも良いことなんてありはしません。
繰り返し、繰り返し、言いますが、ボクら原発推進派が誤ったことがあるとすれば、それは、原発を推進してきたことではなく(意見を述べるのは皆に与えられた権利です)、反原発派の意見を封殺してきたことにこそあるのです。ボクらは、自らが原発が安全だと信じたいがために、それが危険なものであるというデメリットに目を瞑ってしまったのですから。
(だからボクのアバターは目を瞑っている…というわけではないですが…半分くらいは、それも本音ですかね)