志賀理江子「螺旋海岸」展を論じた前2回分の批評、通称「志賀写真=B級ホラー」説は、写真音痴たちの熱に浮かされたような「大絶賛」に対してバランスを取るために書いたものだ
清水穣「批評のフィールドワーク:34」
清水穣氏は、現代の写真論において、もっとも活動的な批評家のひとりだ。彼の著作はボクもいくつか読んでいるし、刺激も受けている。しかし、今回の記事は到底うけいれられるものではない。もちろん、人がどのような意見を持とうが自由だ。志賀展を批判したいのならばそれも良いだろう。だけど、志賀展を大絶賛する人たちが「写真音痴」とは、あまりに横暴な言いぐさではないか。このような、自身に対する権威付け、そして意見の異なる人に対する侮辱を、ボクは決して許すことができない。
まず、「写真音痴」という言葉そのものについて考えてみよう。写真音痴があるということは、当然、その反対もあるということになるだろう。音痴という言葉の語彙に従うならば、その反対は「写真絶対音感」になるだろうか(そして、人を音痴呼ばわりするからには、彼はそれを持っているに違いない)。しかし、「写真絶対音感」とはいったいなんだろう?
「音感」というものは客観的に測定可能なものだ。なぜならば、音の高低は周波数で表すことができるからだ。やり方は色々あるにせよ、「音感」は、ある特定の周波数に割り当てられた音を、正確に言い当てられるかどうかで測定できるということになるだろう。
(もっとも、音楽学の先生によれば、「絶対音感」なるものも、1か0かで判定できる特殊能力などではなく、「なんとなく分かる人-よく分かる人-とても良く分かる人」のように滑らかに分布しているらしいけど。しかし、周波数という基準をもとに、客観的に測定できるという事実には違いはない)
一方、「写真絶対音感」なるものは、果たして客観的に測定可能なものだろうか。一体、それは、どういう基準で測定できるのだろうか。もちろん、そんなことは出来やしないのだ。たしかに、漠然と「良し悪し」があるというのは、ボクにも分かる。だけど、それは音感のように、何か絶対的な基準をもとに測定できるものではない筈だ。
たとえば、測定の基準を「写真史」というものにしてみるとしよう。しかし、そこで見えてくるのは、そこには色んな立場、色んな基準があるということだ。そのどれかひとつを取り上げて「これが絶対的に正当な基準である」ということは言えない(そんなことが言えたとしたら、写真史そのものが終わってしまう)。そういうものであろう。
写真は、かような垂直的な基準で測れるものではない(むしろ、色んな人の意見を基に、統計的に測るしかない)。「写真音痴」なる言葉で、あたかも絶対的基準があるかのように(そして自らがそれを知っているかのように)振る舞い、そして自らの意見と異なる人々に対して、そのような偽りの基準を押し付けて否定するのは、アンフェアというものであろう。
まして、人から評価されていないものを評価するために使うのならばともかく、人が評価しているものを否定するために使うなど、なんとも、みみっちい了見ではないか。
清水氏の議論について、もうひとつ疑問に感じるところがある。それは件の志賀展の批評についてだ。
ボクが行ったのはアーティストファイルの方だけれど、ボクは志賀展を「絶賛」した。そこで書いたのは、「写真というよりはむしろイメージといった方が相応しい」ということだった。だから、「B級ホラー」だという清水氏の評も(その言葉自体が適当かどうかは別としても)、あながち、頷けないことはない。
彼女の場合は、個々の写真そのものよりも、その展示の仕方やイメージの見せ方に特徴がある。ボクは、むしろ、そういった従来の写真史の文脈から外れるような志賀展の試みを高く評価したのだ(B級ホラーで何が悪い!)。
しかしながら、先の展覧会評に対して異議を唱えた楠本氏に再反論する形で、今回、中平卓馬を引きながら清水氏が述べた言葉は、完全に写真史の文脈上からのものになっている(先の「写真音痴」という言葉も、この流れで出てきた言葉であろう)。
そもそも、「B級ホラー」という言葉を用いて、志賀展が従来の写真史の枠組みには収まらないということを指摘していたのは氏自身ではないのか。反論された途端、自らの貝殻(写真史)の中に閉じこもってしまうというのは、一体全体、どういうことなのだ。
ボクは、みながみな志賀展を評価すべきだとも思わないし、色んな意見があっても良いと思う。だけど、ただひとつだけ、「やるならフェアにやろうぜ」ということだけは言っておきたい。