『とらドラ!』論 | 想像上のLand's berry

想像上のLand's berry

言葉はデコヒーレンス(記事は公開後の一日程度 逐次改訂しますm(__)m)







 『とらドラ!』は、『田村くん』においてみられた、自分で動いて誰かの特別になる、という構造をやろうとしてもできない人々の物語なのだ。だからこその、相手のためになることをするのが、自分のためになるという構造。努力の方向を完全にたがえた物語の完成なのである。だが、物語そのものは、その協力関係という建前を置いた、大河を甘やかせるものである。大河と竜司は協力関係にあると言ったが、大河は自分中心で物事を考えており、自分の恋愛がうまくいかないからと言って、竜司に協力することはほとんどない。それでも竜司は櫛枝と次第に仲良くなるのだが、それは彼が大河に協力するために櫛枝とも接触する機会が多いからであり、大河の配慮であったりはしない。不器用であるからと自分の事を棚に上げて竜司がしてくれることをただ享受し、約束をちらつかせるが何もせず、ただ、白馬の王子様(北村)と上手くいくことだけを待っている。そんな〈セカイ系〉主人公のような精神構造を持つ彼女は、結果として無条件に自分を見守っていてくれる竜司に惹かれて行くのだ。
 
長谷川壌「セカイ系ライトノベルにおける恋愛構造論」
『社会は存在しない:セカイ系文化論』2009
 


 これほど的外れな『とらドラ!』論ってありえるだろうか…って、最近、こんなことばかり書いてる気がするけど(^_^;)>
 
 いったい、あれのどこを見たら、「不器用であるからと自分の事を棚に上げて竜司がしてくれることをただ享受し、約束をちらつかせるが何もせず、ただ、白馬の王子様(北村)と上手くいくことだけを待っている」などという感想が出てくるのだろうか。

 (だいたい、この批評家、「竜児」の字を間違ってるんだよな…→×竜司、○竜児…その一点だけをとっても、この人がロクにこの作品を見ていないことが分かる(;一_一))

 ここにボクは、「セカイ系」や「サヴァイバル系」などと分類していくサブカル批評のひとつの限界を感じる。とりわけ物語分析の場合、主人公が「その時」なにを考えていたかが重要になるわけで、上の記述でも、大河が「こう考えている」という前提のもとに話を進めている。だけど、大河が実際にどう考えていたかは、(市民プールの場面で言っているように)「自分だって知らない」。

 クリスマス・イヴの夜に初めて、大河は自分の心を知るわけだ。だけど、それは、たとえて言うのならば「シュレーディンガーの猫」みたいなもの。結果的に「そうだ」というのが、その時に確定するというだけなんだ。さらに物語終盤、大河が北村くんの写真を入れていた生徒手帳には、じつは竜児の写真も入れていたことが分かる。しかし、だからと云って、大河が以前から竜児のことを好きだったと考えてしまうのも早計だ。端的に言って、それは不確定だった。その不確定性こそが、まさにこの作品の胆なんだ。

(そもそも、あれは、基本的には、竜児-櫛枝-大河の三角関係だと見なすべきで。北村くんは、その当初から、ちょっと別の立ち位置にいる。決して手の届かない存在。大河が北村くんにとる態度は、ボクが「青い花」と呼ぶものに少し似ている。決して手の届かない存在なんだけど、その存在が自らを救ってくれる。そして、竜児に惹かれる<あーみん>は、レースに参加できてすらいない)

 以前、ボクが「うぽって」論を書いた時に、その論の枠組みにはまらないものとして、この『とらドラ!』を挙げた。「女性作家だから」と言うのは違うかも知れないけれど、『とらドラ!』は「セカイ系」とか「サヴァイバル系」とかの用語で語り得るものではない(たしかに、高橋留美子的/あだち充的な作品ではあるけれど)。
 
 たとえば、『とらドラ!』は、ある意味では「ハーレム系」とも言えるかも知れない。なんとなれば、メインの女性キャラ3人はみな竜児に惹かれていくからだ。だけど、ここには「ハーレム系」に見られるような(子宮に包まれているという)安息感はない。優しさゆえに傷つけ合う。むしろ、ここで描かれているのは、それぞれの「痛み」だ。

 それは、ある意味では「決断」の痛みでもあるだろう。ここでは、「好き」という言葉が、とてもとても大きな意味を持っている。大河にとってもそれは、「誰にも聞かれたらいけないこと。もしも聞かれたら破滅」なのだ(前回の話に繋がれば、それは「コンビニエンス決断」とは真逆のものだ)。

 最終的にそれを乗り越えていく過程が描かれていることから、一見、「決断」(というより「勇気」と言った方がふさわしいかも)を称揚するような「サヴァイバル系」の作品にも思えるかも知れない。サヴァイバル系の価値観に従えば、『とらドラ!』の「勝ち組」は、結婚という「決断」によって恋愛が成就した主人公コンビということになるだろう。だけど、この作品の本義はそんなところにはない。この作品は「サヴァイバル系」ではない。これはむしろ、それぞれが「本当の自分」を見つけていく旅の物語なんだ。

 たとえば、「決断」できなかった<あーみん>が否定的に描かれているかと言えば、決してそんなことはない。むしろ、その逆で、(アニメのキャラクターに自分をなぞらえるのは世の常だけど)この作品で、もっとも性格的にボクに似ている(=共感できる)のは(男女や境遇の差を越えて)<あーみん>なのではないかという気さえする

 もっとも華やかで、端から見れば、もっとも成功しているように見える(勝ち組)<あーみん>が、一面では優柔不断で、恋においては決断できない弱さを抱えているということ。それこそがここでは重要なんだ。そうした二重性、ひとつのタームでは語り得ないような重層的な構造が、このドラマの深みになっている。

 たとえば、会長にフラれた(失恋大明神)北村くんは、おそらくアメリカに追いかけていくであろうことが示唆されている。そしてまた、<あ~みん>と<みのりん>(櫛枝)の失恋コンビは、おそらく生涯の友になるであろうことも暗示されている。フラれても人生は続いていく。長い長い人生の、ほんの一瞬だけど、素晴らしく輝いていた季節。ここで描かれているのは、「サヴァイバル系」のような勝ち抜きの世界観ではない。櫛枝の次の言葉がすべてを表わしているだろう。

 「あたしには何が幸せか、あたし以外の誰にも決めさせない!」

 (仕事であれ恋愛であれ)一面的な「勝ち負け」という物差しでは測り得ないものがそこにあるということ。それを感じ取らなければ、この作品を見た意味はない。

 ゼロ年代を代表する作品として、「セカイ系」では『涼宮ハルヒ』、サヴァイバル系では…なんだろうな…まあ、なんでもいいや…たとえば『コードギアス』を挙げることが出来るだろう。だけど、「高橋留美子的」という以外に、『とらドラ!』を語り得る言葉を持たなかったことが、このゼロ年代サブカル批評の致命的な欠点であったとさえボクには思える。

 もしかしたら、それはゼロ年代サブカル批評というものが、ほぼ男性のみで行われてきたためかも知れないけれどね。(ボクは、なんでもかんでもジェンダー論を振りかざす連中は性に合わないけれど、こういう傾向を見ると、それも一面、正しいかなと思える)



この世界の誰一人、見たことが無い物がある
それは優しくて、とても甘い
多分、見ることが出来たなら、誰もがそれを欲しがるはずだ
だからこそ、世界はそれを隠したのだ
そう簡単に手に入れられないように
だけどいつかは、誰かが見つける
手に入れるべきたった一人が、ちゃんとそれを見つけられる
そういうふうにできている
「とらドラ!」より