写真徒然13<バベルの図書館> | 想像上のLand's berry

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言葉はデコヒーレンス(記事は公開後の一日程度 逐次改訂しますm(__)m)


 ボルヘスに『バベルの図書館』という短編があります。この図書館の本は全て410頁で統一されています。そして25文字の組み合わせで可能な、ありとあらゆるヴァージョンの本が、図書館には収められているのです。

 一方、デジタル画像は、すべて数字に還元できるものです。写真に限定してみても、デジタルカメラで撮られた写真は、(デジタル化された段階で)すべて数字に還元できるのです。

 たとえば1600万画素だったとすると、それは1600万画素とその各々の画素の諸要素(数値)の組み合わせで記述されうるものです。ここでの総画素はバベルの図書館の本における頁数(総文字数)に相当するでしょう。そして、個々の画素の諸要素は、25文字に対応します。

 ここにおいて、デジタルカメラで撮った写真は、すべてが組み合わせの問題であることになります。すなわち、デジタルカメラそのものが「バベルの図書館」みたいなものだということです。

 この図書館の司書は、利用者(撮影者)の入力に従って、自らの書架から本を持ってきます。すなわち、それは、「すでにそこにあったもの」です。こうして、ここでの問いは次のようなものとなるでしょう。

 (デジタルにおいて)「創造されるものは、すでにそこにあったものか?」という問いです。創造という言葉は、写真においては様々な問題圏を引き込んでしまう言葉ですが、これは、じつのところ、デジタルで描いた絵に関しても同じです。(むしろ、その方が分かり易いかも知れません)

 デジタルで描いた絵も、「あらかじめ、そこにあったもの」を見出していることに過ぎなくなります。これは、ミケランジェロが言っていた、「自分は、彫刻を創造しているのではなく、大理石の中にすでにバーチャルに存在していた姿をただ解放しているだけだ」という言葉を思い起こさせます。

 ここで、ドゥルーズのように「ヴァーチャルなもの」と「可能的なもの」の差異を導入して考えることも出来るでしょうが、ここでは、少し違う角度から考えてみます。

 ここでボクが主張したいことは、次のようなものとなります。それは、創造が組み合わせの問題であったのは、じつはデジタル以前からそうだったのではないか、ということです。絵画も写真も、結局のところ、原子(アトム)を物理的に配置し直すということに他ならないのですから。

 つまり、この問題は、アトムの組み合わせの問題から、ビット(情報)の組み合わせの問題に移っただけなのかも知れません。すなわち、絶えず移りゆき変化し続けるアトムの組み合わせから、身体を持たず老いもしない情報の組み合わせへと。(ということは、デジタルになって、イメージ--絵画/写真を問わず--は、歴史上、初めて「完成」を手に入れたということになるのか)

(しかし、情報はどこから来てどこへ行く?)