写真徒然10<分離と融合、あるいは越境> | 想像上のLand's berry

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言葉はデコヒーレンス(記事は公開後の一日程度 逐次改訂しますm(__)m)


「分離と融合、あるいは越境(あるいはtrans-media)」

 かつて、写真の外見は、それ自体に独自のものであった。写真の外見は同時に、そのインデックス性(≓証拠性)を証すものであった。

 デジタル化は、写真をネガや印画紙などの支持体から分離する。そして、支持体から切り離された写真画像は、デジタルという場において、CGIなど他種の画像と融け合う。デジタル鑑識の分野においても、それをわずかに分離可能にしているのは、画像に混じったデジタルカメラのノイズや特性の自動識別のみである。

 つまり、写真画像は、もはや、ある種のCGIと見分けがつかない。写真の外見は、そのインデックス性を証すものではなくなったのだ。その両者はもはや不可分のものではなくなった。こうして、写真の外見とインデックス性は切り離された。これが、デジタル時代における写真の第2の分離である。

 そして、デジタルという場において、写真の外見は他種の画像へと越境していく。たとえば、フォトリアリスティックなCGI。それは、もっとも分かり易い例であろう。CGIにおいて写真の外見が模倣されるのは、それがもっとも身近なリアリズムの一例であるからだ。しかし、実際に起こっているのは、もっと遙か遠くの領域への越境である。これの典型的な例が、アニメにおける写真的描写である。

 写真は元来、trans-media(媒体を越える)媒体であった。たとえば、絵を写して写真としてしまうように、それは、自らの領域に他のものを取り込んで、領域を拡大してきたものであった。その一方で、それ自身の境界は、透明性という(幻想の)高い壁によって守られていた。それによって、写真の領域から越境(流出)していくものはないかのようであった。入国は出来るが出国は出来ない。それが写真という国の基本的なルールであった。

 しかし、いまや、写真の外見が、他の領域へと越境していく。もはや、その境界にあった透明性という高い壁は失われている。あるいは、それが幻想であったことが見破られた。 我々は、デジタル以前においてさえ、その嚆矢をゲルハルト・リヒターに見ることができるだろう。彼は、遙か以前から、その壁が幻想であったことを知っていたのだ。