
『オウム事件 17年目の告白』
上祐史浩
(2012)
内容紹介
2012年―平田信、菊地直子、高橋克也とオウム特別手配犯が全員逮捕され、オウム事件にひとつの区切りがついた。それを受け、麻原の側近として、教団のスポークスマンとして世間を騒がせた上祐史浩氏が今まで語れなかった真実を告白。オウム真理教はいかにして地下鉄サリン事件を引き起こし、信者たちはなぜ麻原を盲信してしまったのか。その内実を綴った一冊です。
第一章: 地下鉄サリン事件直後
第二章 オウム入信と麻原への帰依
第三章 オウム犯罪の原点?暴走の始まり
第四章 教団武装化?大量破壊兵器の製造実験
第五章 麻原の高弟たちと教団内の男女関係
第六章 サリン事件前夜?狂気の教団内部
第七章 サリン事件を起こしたカリスマの精神病理
第八章 服役、出所。脱け出せない麻原の呪縛
第九章 麻原奪還テロ未遂事件
第十章 麻原からの自立。アレフから脱会
第十一章 ひかりの輪としての歩みと、アレフとの違い
第十二章 父、そして母のこと
参議院議員でジャーナリストの有田芳生氏との検証対談も収録!
(Amazonより)
感想
まず感じたのは、やはり上祐は、エクリチュール(書き言葉)より、パロール(話し言葉)の人だということ。同じような話の繰り返しがあったり、流れの中で、話が前後したりします。そのせいか、議論がス~っと深まっていくというよりは、(「その場しのぎ」とまでは言いませんが)表層でグルグルと回っているような印象がありました。
そういう点では、早川(紀代秀、元オウム幹部-死刑判決)の手記のほうが、はるかに内省的で、深い思弁性が見られた気がします。それは、自らの手を汚した人間の葛藤と苦悩から紡ぎ出された言葉と、(結果的に)手を汚さずに済んだ人間の葛藤から生み出された言葉の差かも知れませんし、あるいは、死刑判決を受け、独房のなか他のことは一切考えずに済む早川と、まだ「現世」のことを考えなければいけない上祐の差かも知れません。
そして、この先も生き続け、また自らの団体を養っていかなければならない上祐の反省の弁には、どこか戦術的な匂いもします。ただし、ボクは、「上祐は(早川より)反省してない」とか言いたいわけではありません。本当に反省しているかどうかなんざ、ボクには分かりませんし。
ただ、上祐が立ち上げた「ひかりの輪」が、その謳い文句どおり、旧オウム信者の麻原依存からの脱却を助け、オウム事件の被害者達への賠償金を払い続けるのならば、麻原崇拝へと回帰するアレフに対抗する上祐の戦術は、一定の理があるように思える。それだけのことです。
とは言え、教団の最高幹部であり、麻原の身近に居た上祐です。彼の、麻原や教団に対する直截的な言葉からは、推測でしか言えない余人の言葉にはないキレを感じます。(キレはあっても、時折、週刊誌的な感じもしたりして、あまり深みはないですけど)
たとえば、麻原は「誇大妄想かつ被害妄想であった」という言葉は、身近にいた上祐の言葉だからこそ、説得力を持ちます。ただ、「詐欺師ではなく、誇大妄想である」という言葉には、素直に承服しがたいところがありますがね。むしろ、最悪の詐欺師ってのは、自分自身をも騙せる人だとボクには思えますから。まあ、これは単に言葉の定義の問題ですかね。
また、「親子関係」という切り口は、ありきたりでもありますが、それを上祐の立場で言うことは、それはそれで、なかなか意味を持ちます。彼にとって、(若い頃に家を出て行った)実際の父は存在感が薄く、麻原が「父」代わりであったというのは、ひとつの本質だと思うのです。この書物の中で描かれている物語は、上祐が麻原/教団から離れていくと共に、「偽りの父」から離れ、「実際の父」を取り戻していく話とも読めるわけです。
ここでエヴァに話を振ってしまうことが良いことかどうか…あれはまさに親子関係を描いたものだったわけです。そして、エヴァのラストは、子どもが祝福されて終わるのでしたね。エヴァがオウムから直接に影響を受けているかどうかはともかく、同じような土壌から生み出されてきたものであることは間違いないでしょう。だからこそ、エヴァはオウムに(子どもたちを連れ去られた社会に)対するアンサーとして読み取ることが出来るわけです。
それから、もうひとつは「大きな物語」ですかね。冷戦の終結、そして経済の停滞によって、「大きな物語」の終焉を迎えた我が国。そこに、麻原は、終末論やら、(フリーメーソンがどうとかいう)陰謀論やら、「(擬似的)大きな物語」を持ち込んで、若者達の心をつかんだ。「超能力」ってのも、見ようによっちゃ大きな物語になり得ますかね(科学⇔非科学)。
ちなみに、有田芳生氏との対談は、はっきり言って、ほとんど意味がありません。「検証」ったって、ほとんど中身のある話は出てきません。少なくとも、この本の中では大した機能を果たしていませんね。まあ、本の外では、それなりに意味があるのでしょうが。(出版社としても、上祐の本を、ただそれだけで出すわけにもいかんでしょうから)
追記…
上祐が、「教団に居た頃、自分は日本人というよりオウム人だった」と述べているのですが…殺人などに対して個人的な葛藤はあったにせよ、その社会/共同体の中では、それは社会的正義として正当化される(たとえば戦争での殺害や死刑執行)ということ、これがそもそも殺人という行為にまで及んだ根本原理だったのではないか(もちろん、グルへの絶対的帰依という側面はあったにせよ)…つまり、あれはオウムという仮想国家が日本に対して仕掛けた戦争行為だった…そのレベルにまで議論のレベルを落とした方が分かり易いのかも知れない。(それはつまり、国家による行為そのものをも相対化することに繋がるのだけれど)