青春のラップタイムに関するetc.(城恵理子/三田麻央) | 想像上のLand's berry

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言葉はデコヒーレンス(記事は公開後の一日程度 逐次改訂しますm(__)m)


 現代美術の絵画が、美と無関係のように見えるのは、現代において美が定義できなくなったからではなく、それらがイリュージョン(錯覚の奥行)を失ったからだ。それらの絵画においては、すべてが近いものになってしまった。そこには、遠いものと近いものとの非論理的な結合は見られない。

 美とは、遠くにあるものの近さ、近くにあるものの遠さの内にある。それは、遠いものと近いものとを結びつける。そしてまた、それは、「今」という言葉の中で、過去と、過去の内にある未来とを結び付け、永遠のものへと転化させる。ふたつの離れたものの非論理的結合が美を美たらしめる。





『美の瞬間』(青春のラップタイムに関するetc)

 ここ数日、この曲がマイブームなのですが、音のくぐもったこの動画においても、ある場面、ある瞬間が、ボクには、とても美しく感じられます。それは、三田麻央さんが映った場面(1:14-1:18)で、タンタンタンと踏んだ3つ目のステップ(?)、それと同時に足を入れ替えながら、こちらを向く振り付けのところです。

 なぜ、ここなのか。ひとつの分かり易い説明としては、彼女自身の容姿が挙げられます。動画を見ても分かるように、彼女はスラーっとした体型で、足が長くて、とても見映えがします。もちろん、それも美のひとつの要素ではあるのですが、ここでボクが美しいと言っているものとは少し違います。

 たとえば、なぜ、「NMBイチの美人」吉田朱里ちゃんの場面じゃないのか(事実、同じ曲の別versionでは吉田さんの場面が最も美しく感じました)。そしてまた、なぜ、NMBでもっとも華があるエースの山本さんや渡辺さん、あるいはボク推しの山田菜々ちゃんの場面じゃないのか、ってことの説明がつきません。そもそも、じつのところ、ボクは三田さんって、ほとんど良く知らんのです。

 もうひとつ考えられるのは、この場面の画的特性です。この場面は、花道みたいな場所で撮られています。背景が(観客席で)暗くなっているため、キラキラと光る花道の上だけが浮かび上がってキレイです。ちょっと非現実的な感じ、宇宙的な感じもします。この場面の、ちと前に映る木下(百)ちゃんと矢倉さんの場面も、同じような場所で撮られているのですが、そちらもまたキレイに感じます。だから、このことは少しボクの印象に関係しているでしょう。

 それでもまだ、なぜ、そこ(三田さんの3ステップ目)の瞬間か、なぜ、そこでなければならなかったのかということの説明がつきません。そもそも、ここでボクが美しいと言っているのは、ものの性質というよりは、むしろ、その瞬間の性質なのです。

 ここで、時間という切り口から考えてみましょう。注目すべきなのは、この場面の直前に、卒業した城ちゃんが映っているということです。

 城ちゃんが出演していた『NMB48 げいにん』は、なにか特別なものを持っている番組でした。あの無邪気な笑顔…非常に安い言葉で言ってしまうのならば、それは、おそらく「青春というものの燦めき」です。それはまた、ボクがドラマ『ナツのツボミ』や『Division1 放課後』、はたまた『けいおん!』などから感じられたものです。

 『NMB48 げいにん』において、それは城ちゃんの存在に拠るところが大でした。今を懸命に生きるということと、その背後にある苦悩。次世代エースとしてのプレッシャー。『げいにん』DVDの特典映像で、何度も漫才を失敗して、「(私なんか)死ねばいいのに」と号泣していた姿が印象的でした。あの無邪気な笑顔の陰で、彼女は悩みぬいて、グループを卒業することを決めたのです。

 それはどこか、『ナツのツボミ』での、ゆかりんの姿と重なっていきます。ゆかりんは、夏休みになったら転校しなければならない、だけど大切な部の仲間たちに、どうしてもそれを打ち明けることができない。何気なく過ぎていく日常、些細な出来事のなか、垣間見せる、ゆかりんの少し悲しげな瞳。

 城ちゃんは、まさにそんな『ナツのツボミ』のゆかりんを地で行ったような気がします。彼女の姿は、なにか、とても大切なものへとボクの心を向けさせます。「今」という言葉の中で、過去と、過去の内にある未来とが結び付き、永遠のものへと意識を転じさせるのです。黄金の太陽が降り注ぐ、あの遙か彼方の緑の草原へと、ボクを連れ出すのです。

(城ちゃんと『ナツのツボミ』に関しては以前も書いています→http://blogs.yahoo.co.jp/flowinvain/32023741.html

 こうして、↑の動画でも、城ちゃんが映っている場面を見ると、ボクの心は遙か遠くへと連れ出されます。(それは、おそらく、この曲自体の性質にも由来しているでしょう。この曲は、まさに文字通り「青春のラップタイム」なのですから)

 この動画の城ちゃんの姿を見ているとき、そこは何かとても非現実的な場所のように感じます。そこにいる城ちゃんが、もう卒業して居ないということ…。それは、ロラン・バルトが(写真の特性として)言うところの「それは-かつて-あった」ということに、少し近いものかも知れません。胸に突き刺さるような、少しだけ胸がギュッとするような、そんな感覚を覚えます。

 そこで、三田さんの場面です。なぜ、あの瞬間なのか。気がつけば、あの瞬間はちょうど曲のサビにも当たっているのですが、あの3ステップ目の振り返り、その直前の横顔。あの横顔から振り返る瞬間、ボクの心は現実に引き戻される気がするのです。それは、もちろん、三田さんのダンスのキレによるところも大きいでしょう。

 城ちゃんによって非現実的な場所=幻想へと連れ出されたボクの意識は、三田さんの3ステップ目で現実へと戻ってきます。つまり、あの瞬間は幻想と現実とを繋ぐものになっているのです。だから、あれが、あの瞬間が美だと感じるのは、それが幻想と現実を結び付けているからじゃないか。そんな気がします。



補足
 あの瞬間にボクが感じている美の本体は、じつは城ちゃんの場面にある…のかも知れない。その時にはそれに気付かない(というより様々なものと融け合っている)んだけど、現実に引き戻された時に、それが美であったこと、そこに美があったことに気付く。その瞬間が、そこだったんだと。

 シームレスに(幻想から現実へと)戻ってくるんじゃなくて、あの瞬間にグッと現実に引き戻されるから、あの瞬間に強く美を感じる。じつは、美というのは、(時間的なものであれ空間的なものであれ)空気のように、あるいは霧のように分布しているのかも知れないな…普段は気付かないけどそこにあって、その濃度が濃くなったり薄くなったりすると、そこにあることに気付く。