悪というのは、僕にとってひとつの大きなモチーフでもあるんです。僕は昔から自分の小説の中で、悪というもののかたちを書きたいと思っていました。でもうまくしぼりこんでいくことができないんです。悪の一面については書けるんです。たとえば汚れとか、暴力とか、嘘とか。でも悪の全体像ということになると、その姿をとらえることができない。
村上春樹「『アンダーグラウンド』をめぐって」
『約束された場所で』p.273

『A』
森達也
内容紹介
マスコミって何ですか? オウム取材を通じ社会を糾弾する秀作ドキュメント。メディアの垂れ流す情報に感覚が麻痺していく視聴者、モノカルチャーな正義感をふりかざすマスコミへの嫌悪、「オウム信者」というアウトサイダーの孤独を描き出した秀作ドキュメンタリー
出版社からのコメント
僕らはあの事件からまだ何も学べていない。――オウム真理教の中から見たとき、外の世界はどう見えるのだろう? 一九九六年。熱狂的なオウム(現アーレフ)報道に感じる欠落感の由来を求めて、森達也はオウム真理教のドキュメンタリーを撮り始める。
オウムと世間という二つの乖離した社会の狭間であがく広報担当の荒木浩。彼をピンホールとして照射した世界は、かつて見たことのない、生々しい敵意と偏見を剥き出しにしていた――!メディアが流す現実感のない二次情報、正義感の麻痺、蔓延するルサンチマン世論を鋭く批判した問題作!ベルリン映画祭、山形国際ドキュメンタリー映画祭をはじめ、釜山、香港、バンクーバーと各国映画祭で絶賛された「A」のすべてを描く。(Amazonより)
感想
『A』『A2』を読みました。結論から言えば、『A3』より遥かに良かったですね。まあ、肝心のドキュメンタリー映画の方は、まだ見られてないんですが(^_^;)>
『A3』では、対象となる麻原が不在だったこともあり、著者の頭の中だけでグルグルまわっている印象がありました。まあ、「麻原」や、「組織としてのオウム」という大きな主題を扱っているので、目を引きそうですけどね。後半、幹部たちとのやり取りの中で、その中心不在の構造は解消されていくわけですが。この時には、焦点が、「麻原そのもの」から、「個々のオウム信者から見た麻原」へと変化していた気がします。
一方、『A』と『A2』では、焦点がかなり早い段階で定まっています。ボクは、ドキュメンタリーとしての質は、前2作の方が遥かに高い気がします。
少なくとも、善悪や正邪の二元論が行き着く先は、無限に触発される他者への憎悪でしかない。そんな社会はきっと自滅する。それだけは確信がある。
森達也『A2』p.46
警察やマスメディアが「悪」で、迫害されるオウム信者が「善」なのだと規定するのなら、善悪や正邪の二元構造が単に転換されただけで、何の進展もない。少なくともそれは僕の本意ではない。
『A2』p.72
『悪という位相』
気が付けば、森さんも村上さんも、「悪」というものに焦点を置いています。オウムに興味を持つものが、必然的に向き合わなければならないのが「悪」という位相なのでしょう。というよりも、「悪」という位相に向き合っていると、オウムに行き当たるのかも知れません。
たとえば、北朝鮮や韓国、中国(あるいは彼らにとっては日本)。在日。右翼。原発と東電。暴力団。米軍基地、オスプレイ。「悪」と見なされるものたちの中で、ひとつの極にあるのが麻原とオウムでしょう。それは、もっとも相対化しづらいものです。この極には麻原とオウム、ビン=ラディンとアルカイダ、そして、もっとも突き当たったところに、ナチスとヒトラーがいます。
「悪」を相対化しようと試みる時、かならずそこにブチ当たってしまいます。単純にヒトラーやナチスを相対化しようとすれば、それは再評価の契機になってしまうかも知れないのです。それは、とても怖いことです。でも、ボクはこうも思うのです。「悪という思想」(悪というレッテル貼り)を、もっとも極端な形で使ったのがナチスなんだと。
「悪という思想」(≠悪という位相)とは、一言で言ってしまえば、何か(うまくいかないこと)を、他の誰かのせいにするということです。ナチスにとっては、これはユダヤでした。そして、麻原とビン=ラディンにも同じことが言えるでしょう。前者にとってそれは、(フリーメーソンがどうこういう誇大妄想はさておき)警察や社会そのものであり、後者にとっては、アメリカです。
だから、「悪」を相対化するということは、もっと根本的なところで、彼らを(その行為を)否定することになる。そういう風に、ボクは考えています。