ホームの向こうに列車を見る。数分後、ボクはそこに乗っているということを分かっている。ヒュームに言わせれば、それは保証されていない筈なんだけど、でも、実際にそうなる。ここで問題なのは、ボクは、現実を、そういうものとして受け止めてしまっていること。そして、さらに問題なのは、そうした現実に厭いてしまっていること。惰性的な現実のなかで、感情が乾いていくこと。心がどこかで壊れていくこと。

『約束された場所で―underground 2』
村上 春樹
(1998年)
概要
救いを求めて旅だった若者たちはなぜこんな所に辿り着いてしまったのか?地下鉄サリン事件を生んだ「たましい」の暗闇に村上春樹が迫る。オウム信者徹底インタビュー。(Amazonより)
感想
村上春樹さんの『約束された場所で』を読みました。まず考えたのは、帰属意識というもの。これが割りに本質なのではないかと。『A』の撮影を通して、オウム信者と長く時間を過ごした森達也さんは、やはり心のどこかで、オウムにシンパシーを抱いている。あの犯罪そのものは非道なものであると認めたとしても、どこかで憎み切れていない。
一方の村上さんは、『アンダーグラウンド』で、まず被害者の方と長い時間を過ごした。だから、あまり表には出しませんが、心のどこかで、やはりオウム(というより、あの犯罪)に対する強い憎しみを抱いている。人が感情的な生き物である以上、それは仕方がないことなのかなとも思います。パースペクティブの問題は、村上さんも意識されているようですし、だからこそ、この『約束された場所で』を書かれたのでしょう。
この本を読んで感じたのは、一口にオウム信者と言っても、やはり、色んな濃度、スタンスがあるということ。千差万別と言っても良いくらいに、みな教団や麻原、さらには教義そのものに対するスタンスが違う。前にも、幸福の科学との比較で書きましたが、カルトとしてのオウムの特殊性って、この多様性って(なんか言葉がこんがらがってる感じですけど)ことなのかなって気がします。
だから、一見、カルトにハマるようなタイプに見えない人も取り込まれていった。でも、(この本でインタビューされた信者の間で)ひとつ似たような傾向があると思ったのは、どこかの時点で、オウムの教え(?)を聞いて、「これだ!」と、思ったということ。う~ん…こういうのは、なんか理屈じゃないと思うんで、分析しても仕方がない気がします。
恋愛と同じで、なぜ好きになったかと聞かれても答えようがないし、「あんなものはしょうもない」と周りが言ったとしても、ほとんど意味がない。(たとえどんなカルトであれ)そこに居場所を見つけてしまう人ってのは、かならず居ますからね。だから、問題はむしろ、それをいかにして犯罪行為に走らせないように出来るか。
村上さんは、(修行によって)自我をなくしていき、そこにグルと弟子との絶対的帰依の師弟関係が入ってきて、犯罪行為に結び付いていった、という仮定で話を進めています。実行犯レベル/実際の犯罪現場における心理として、それは確かにそうかも知れないですが、組織そのものを犯罪へ駆り立てていった原理としては、ちょっと受け入れがたいですね。
これだと、壱から十まで全て計算尽くって感じがしますけど、オウムには、そんな感じはない。森さんや(元)信者が言うように、オウムの信者管理ってのは、計算尽くというよりは、むしろ杜撰な感じがする。割りとみんな、自分がやりたいようにやっている。
だからむしろ、犯罪行為に駆り立てて行ったのは、(これまでに見てきた感じからすると)オウムが対話型の組織であるということに原因がある気がします。そういう意味では、森さんが『A3』で言っていた、麻原と弟子の相互関係の中で生まれてきた犯罪という方が、ボクにはしっくりきますし、もともとボクが抱いていたイメージにも近いです。
つまり、信者たちは、自分の手柄(というか何だろうな)が欲しくて、あることないこと麻原に吹き込む。麻原(裸の王様)は、目が見えないから、自分では確認できないんだけど、最終解脱者だってことになってるから、周りに確認することも出来ない。
そして、もともと被害妄想的な傾向があった麻原は、たとえば村井なんかの大仰な報告(上九一色村の施設にヘリでサリンを散布されたとか)の方に、リアリティを感じてしまう。弟子たちも、麻原のそういう傾向を知っているから、その好みに合うような報告ばかりを耳に入れるようになる。
こうして、雪だるま式に被害妄想を膨らませていき、それはやがて、組織全体の被害妄想へと転化されていく。そして、警察や社会に対する防衛本能によって犯罪組織へと急速に変貌を遂げていく。もちろん、その根底には、麻原自身がもともと持っていた武力的革命思考が横たわっているわけです。
まあ、これもスンナリと説明し過ぎてて、逆に納得しがたいところもありますけどね。実際には、80年代末から既に殺人事件を起こしているわけですし…ただ、もともと後ろ暗いところがあったために、逆に被害妄想が膨らんでいったって見ることもできますかね。
正直、どこの時点でルビコン川を渡ったのか、今でも良く分からんところがあります。最初に、富士山道場での信者の(事故)死を隠蔽したところなのか。それとも、その後に抜けようとした信者を、情報漏洩を恐れて殺したところからなのか。それとも、もっとずっと前からなのか。ずっと前から被害妄想は膨らんでいて、だから信者の死を隠蔽したのか。
閑話休題。どうやって犯罪行為に走らせないようにするかって話。これって、なかなか難しい問題だと思うんですよね。だって、そもそも(反社会的とは言わないまでも)社会に馴染めない人が集まるのが、カルトの基本の筈ですから。そう考えると、マスメディアも罪作りだなって思います。「世界はこんなに腐っている」と、「こんなに汚いんだ」と、毎日毎日、流している。
だから、(いきなり陳腐な話になりますけど)、オタク系文化の役割って割りに大きいと思うんです。オタク系ってのも、それ自体に社会に馴染めないという概念を含んでいますし。まあ、いまや、オタク文化が社会を形作っている側面もあるので、その状況での社会って、いったい何ぞやって話もありますけど。
でも、実際(もちろんオタク系だけに限った話ではありませんが)社会に馴染めない人ってのはいるわけです。だから、ガス抜きってわけではないですが、(宇野常寛さんは否定するけれど)「ハーレム系アニメ」のように、現実逃避の方法を作ってやるのは割りに大事だと思うんです。
それを、(宇野さんのように)「サバイバル系」で生き抜けって言ったってしょうがないでしょう。現に生きにくい世界がそこにあって、生きられない人たちがそこにいるんだから。それでも、生きられない現実を何とかやり過ごしながら、現実逃避しながら生きている。それを、ボクは責める気にはなれません。
隅っこが好きだ。駅のホームでも、必ずいちばん端っこまで歩いて行って乗る。学校の空き時間でも、(屋上ってのは使えないから)7号館の4階にある空中ラウンジまで行って時間を潰している(これも、そこで書いている)。テスト前で、図書館や学生フロアには人が溢れているけれど、さすがに4階まで上がってくる人は少ないから、ここは空いている。
一人が好きだってのとは少し違うかも知れない。大学院に入ってから、自専攻の研究室ってのがあるから、そこに行けば誰かに会えるのは分かっている。でも、ほとんど行ったことがない。別にキライだってわけじゃない。ボクはむしろ、彼らのことを割りと好きだと思う。でも、一人でいる方が落ち着く。人と会っている時の自分は、ホントの自分じゃない気がする。
一人が好きだってわけじゃない。でも、そうせざるを得ない。いつも、心の何処かが逃げ場を求めている。ボクがこうして、オウムのことを調べているのも、もしかしたら、あり得たかも知れないもう一人の自分(それは無数にいるんだけど)の姿を、そこに見出すからかも知れない。
だからこそ知りたい。彼らは、なぜ、あのような犯罪組織に成り果てたのかと。「末端は関係ない」ってのは、ある意味では正論だけど、それだけでは通用しない気がする。表と裏とは、結局は同じ紙の上のものなのだから。
また今年度が終わる。サイアクだ。なんでか分からないけれど、ボクはさびしいんだ。