
『A3』
森達也
(2010年)
概要
なぜ「あの事件」から目をそむけるのか?「何でもいいから、早く吊るせ!」。それが大半の日本人の本音なのか。真相究明なしに「事件」は葬り去られようとしている。『A』『A2』の作者が、新しい視座で「オウム事件」と「日本人」の本質に迫る!(Amazonより)
感想
A3を読みました。う~ん…。↑の概要でも分かると思うんですが、なんか、この人、決めつけてかかるんですよね。「なぜ目をそむけるのか」って、別に(少なくともボクは)そむけてないし。見返しにも、「あなたには知ってほしい」「考えてほしい」と書いてあります。このスタンスが、ボクには最後まで引っ掛かりました。何でも決めつけてかかる姿勢。こういうタイプの人いるよな~と。
ま、とりあえず、感想をつらつらと書いていきますか。この本、Amazonさんのレビューなどで絶賛されて(講談社ノンフィクション賞なるものも受賞して)いるのですが、ぼくは大して感銘も衝撃も受けませんでした。
まあ、全体の雰囲気にガーッと流されて、オウム=絶対悪で思考停止しちゃっていた人たちは、衝撃を受けたのかも知れませんが、ぼくはそもそも、そこにはいませんし。むしろ、逆に、著者と似たようなことを考えていた(記事参照)からこそ、あまり刺激されなかったのかも知れません。(「オウムの方が幸福の科学よりマトモに見えた」って書いちゃっているくらいですしね)
この著者は鋭いことも言いますし、評価できるところもあります。とくに、後半に入ってからの、収監されている幹部達とのやりとりは引き込まれます。一方、前半は、別のこと(麻原に精神鑑定を受けさせるべきだという主張)に気を取られているようで、焦点がブレてしまっていますね。それによって、議論の透明性すら奪われています。
たとえば、p.27(連載第一回)。著者は公判を一度見ただけで、麻原は精神的におかしくなっていると「決めつけ」、他の見方をする(つまり、詐病であると見る)論者を批判します。しかし、そこで根拠のひとつとして挙げるのは、次のような例なのです。
「二十代のころ、僕は芝居をやっていた時期があるが、もしもこの法廷での麻原の役をアドリブ演じようとしても、まず不可能だ。絶対にテンションを維持できない。間違いなく言葉に詰まる。(中略)断言するがロバート・デ・ニーロやロビン・ウィリアムスにだって、アドリブでこの演技は難しい」p.27
なんじゃそりゃあ…って、正気ですか。まあ、自分云々ってのが、「しょーもな」ってのは言うまでもないかなと。それから、ロバート・デ・ニーロやロビン・ウィリアムス云々って、ここでも、「決めつけ」が出てきましたね。その根拠も示されてないし(後にも出てくるけど、この人、根拠がないことを主張するときに「断言」とか「絶対」とか「間違いなく」って言葉を使う傾向がある)、そもそも、2人に対して失礼でしょ(笑)
さすがに、後になると、こんなものを根拠としては使わなくなります。だけど、これは連載シリーズですから、基本的には、その時々で言っていたことが、その批判の根拠の全ての筈ですよね。人の意見を否定したいのなら、それなりの根拠がなければいけません。
この傾向は、この本全体に散らばっています。著者は、連載第四回において、自分の麻原への見立ては「主観」に過ぎないと断りながら、相手(ってのは意見が異なる人)の見方も主観に過ぎないから、専門家に鑑定させるべきだと述べます(「絶対」とか「間違いなく」とか言っていたのは、いったい何だったんだって話は置いておくとして(* ̄艸 ̄))。
「傍聴した二人が互いに主観で争っても、傍聴しなかった読者にとっては判断しようがない。だからこそ鑑定をして白黒をつけさせるべきなのだ」p.74-75
この文自体は、ボクは何ら問題があるとは思わないですし、その考え方にも賛成です。そもそも、あれも主観、これも主観ってのは、ボク自身が良く訴えていることですし(客観的事実は主観的事実の総和ないしその平均として存在する)。
そして、のちに実際、精神鑑定が行なわれます。出た結果は、(麻原は)「訴訟能力あり」。そこで、著者はどう反応するか…って、もう想像できますよね。そう、「この専門家は間違っている」と、のたまうわけです(笑)。
で、結局なにをするかと言えば、主観に過ぎなかった筈の自分が、専門家のレポートを、査読して(こき下ろして)見せるのです(連載第十七回)。主観の筈が、専門家を乗り越えちゃってるじゃんと(笑)
これって、何か意味があんのだろうか。要は、自分が気に入る結論がでなきゃダメってことでしょ。(ボク自身も西山鑑定が全て正しいとは思わんが)それならせめて、別の専門家に意見を聞けば良いものを…。
この著者は、「主観」という言葉を良く使います。だったら、すべての主観を等価に扱わなければならんはずです。しかし、この本では、あらゆる個々の主観が、結局は彼の主観に回収されてしまいます。つまり、彼の主観なるものが、神の視点になってしまっているのです。
主観にしか過ぎないと認めているのに、本の構成上は何もそうなってはいない。もちろん、これは彼の本だから、ある程度はやむを得ないのかも知れませんがね(彼自身、それを認めていますし)。
とりわけ酷いと思ったのは、連載第十二回。この段階では、まだ麻原の精神鑑定の結果は明らかになっていません。彼はこう述べます(ちょっと、長い引用になります)。
拘置所にいる麻原について、僕は「あること」を知っている。多くの拘置所関係者も知っている。でも面会時に彼が頻繁に行うというその「あること」が何であるかは、今はこの誌面には書けない。書けない理由も書けない。読者に対して、こんな書き方はとても非礼で非常識であることは承知している。でも「知っている」としか今は書けない。もう少し時がたてば書けるかも知れない。だから須田賢裁判長に訊きたい。あなたはこの連載を読んでいるのだろうか。読んでいるのなら、たぶん「あのことか」と察しがつくはずだ。あなたはこれを知ってなお、麻原被告には訴訟能力があると断定するつもりなのだろうか。ならば僕は断言する。あなたのほうが普通じゃない。p.196
(この「あること」が何かは、後に明らかになります。この人が明かしたわけじゃないけどね。つまり、麻原が接見中に自慰を始めるって…こんなことボクも書きたかないんですが)
「書けないこと」で、相手を糾弾する。この人には、ジャーナリストとしての良識はないのだろうかと。書けないのだったら、そのことを使って、人を批判すべきではありません。それは、批判とともに封印すべきです。逆に、批判するのであれば、その「あること」が何かを、きっちり書かなければなりません。それは、後に明らかになるとか、そういう以前の問題です。
そもそも、それが明らかになった後でも、世論は変わりませんでした。この状況で「普通」ってのは、いったい何でしょうか。自分以外のもの全てが気が狂っていると見えたとしたら、それは自分自身の気が狂っているのです。それが、「普通」という概念の中身の全てです。なにかその外に、普遍的なものがあるかのように見せるのは、まやかしでしょう。
彼は、一方で、あれも主観これも主観などと言っておきながら、いざ相手を攻撃する時には、「断言する。あなたのほうが普通ではない」などと、臆面もなく言ってのけるのです。しかも、読者には判断がつかない形で。これじゃあ(実際にはどうであれ)、ただの印象操作と変わらんじゃないですか。
これほど汚く、そして一方的な攻撃を、ボクは見過ごすことが出来ません。彼は、裁判が正当な手続きを踏んでいないと糾弾します。では、ジャーナリストにとっての正当な手続きというものを、いったい、どう考えているのですか。
さらに、この著者は、最高裁の判決(死刑)が出たのちに、それを当然とする大多数の意見のなかで、聖書を引きながら、こんな台詞を(2度に渡って)吐きます。ホント、引用するのもバカバカしいんだけど。
「父よ。彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか自分でわからないのです」
p.354
はっきり言いましょうか。「主観」だの何だの言ってるわりに、この人は、自分を「絶対的」に正しいと、心のどこかで思っています。だから、ボクもこう言いましょう。「父よ、彼は何をしているのか自分でわからないのです」。
(一応、誤解のないように弁護しておくと、著者は麻原が死刑だってことに反対なのではなく、裁判の手続きが正当に行なわれたかどうかについて、一貫して疑問を述べています)
ボクの、この違和感はいったい何でしょうか。決して頭の悪い人だとは思いませんし、最終的に彼が導きだした、「麻原と弟子の相互作用によって、オウムは犯罪へと突き進んでいった」という結論にも、(大枠では)納得できます。ボクはもともと、(冒頭にも書きましたが)「麻原とオウムは絶対的な悪で、それ以外の側面は何もない」という風には見なしていませんし、立場的には彼と近い筈なのです。
でも、何か相容れないものがある。(冒頭に書いた)「こういうタイプの人っているよな」と思いながら、ボクが連想していたのは、大塚英志さんと東浩紀さんの論争です。大塚さんは、(それこそ警察や検察のような)権力対市民のような図式を使って、東さんを(こういう言い方が許されるのならば)問い詰めていく。だけど、東さんは、どうもその図式がピンときていない。
(ボクの考えでは)そもそもポストモダンの世界では、市民がそのまま権力ですし、権力が何かを行使するのならば、それは「彼ら」が使うのではなく、「我ら」が使うのです。だから、ボクにとっては、大塚さんや森さんは、何だかドン・キホーテのように見えてしまう。何と戦っているんだか、よく分からない。なのに、妙に攻撃的。彼らにとっては、まさにそこにあるもの。でも、ボクにとっては、それは余りリアリティがない。
ここで、ボクが「彼らにとっては」とか、「ボクにとっては」という言葉を使っていることに留意して下さい。つまり、それは、その議論の射程が限られている、ということです (ちなみに、大塚さん[58年]と、著者の森さん[56年]は、ほぼ同世代です。まあ、ここにあるのは、世代の問題だけではないとは思いますが)。
閑話休題。で、何の話でしたんだっけ…そうそう、違和感って話ね。最後に、もうひとつだけ例を挙げて終わりにしましょう。超常現象や超能力についての話です。p.160(連載第10回)。
もちろん量子力学は素粒子の運動を記述するために生まれた理論だが、「シュレーディンガーの猫」のパラドックスが示すように、ミクロで証明されることが現実世界で絶対に起きないとは断言できない。むしろ起きて不思議はないと考えるべきであることを、コペンハーゲン解釈は示している。つまり量子力学的な解釈を思い切り演繹すれば、意識が物理的作用をもたらすことに、非合理性はほとんどない。p.160
「思い切り」って、また思い切ったな~…って、本気ですか。どこのトンデモ本ですか(「ト学会」さん、出番ですよ(* ̄艸 ̄))。そもそも、「思い切り」って言葉と、「演繹」って言葉が噛み合っとらんのですが…しかも、「思い切り演繹(って言葉が意味不明すぎて分からんけど)」したら、合理性も何も関係なくなると思うんだけど。
(まあ、一応、ここでも弁護しておくのならば、この文章の後に、超常現象とか超能力を「すべてを肯定するつもりはない」と述べています。)
しかし、そんなもん、故ファインマン(ノーベル物理学賞受賞の量子力学者にして疑似科学バスター)が読んだら嘆きますよ「絶対」…なんてね、オチつけて見たりして。
まったく、誰ですか。この本を良書だとか言ってるのは…(* ̄艸 ̄)
P.S.
Wikiを見てみたら、著者が「(この本について)色々言われていますが、全部反論できます。」だって。それって、その姿勢自体がもう全然ドキュメンタリーじゃないや…だって、人の言うこと聞く気が全然ないもの(;一_一)