シェリー 弐 | 想像上のLand's berry

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言葉はデコヒーレンス(記事は公開後の一日程度 逐次改訂しますm(__)m)


 詩は推理、すなわち意志の決定にしたがって行使しうる力とは異なっている。だれも「わたしは詩を作るつもりだ」ということはできない。最大の詩人でさえ、そうはいえない。というのは、創作のさいの精神は、たとえれば消えかかった炭火である。気まぐれな風にあおられるように、目に見えぬある力にかきたてられて、しばし赤々ともえるのだ。この力は、花がほころびしおれるにつれて薄れうつろう花の色のように、内から起こる。そして、われわれの本性の意識的部分はこのカの去来を予言しえない。もしこの力が最初の純粋さと強烈さを保ちつづけることができるならば、その成果はどんなに偉大なものとなるか、予測は不可能である。しかし実際は、作詩がはじまるとき、霊感はすでに衰えつつあるのであって、これまでこの世に伝えられたもっともかがやかしい詩も、おそらくは、その作者たる詩人の最初の着想のかすかな影にすぎないであろう。わたくしは当代最大の詩人たちにたずねたい、もっともすぐれた詩句が努力と勤勉の所産であると主張することが、謬論でないかどうか。時間をかけ刻苦完成すべしとの批評家たちの提言は、ただ、霊感をうけた瞬間を注意ぶかく観察すること、そしてその瞬間にうけたさまざまの示唆のあいだの間隙を、因襲的表現を織りこむことによって人工的につなぐこと――もっとも、これも詩才そのものがあまり豊かでないばあいにのみ必要なことだが――を意味するにすぎないと解することができるが、それは正しい。

「詩の弁護」森清訳
『世界の詩論』pp.107-108