『ボクらの時代<3>チルドレン』
1.終末思想:「逃げ場がない」こと
なぜ、社会は、オウムに若者を持っていかれたのか。前回、それには答えないことにしました。オウムに関しては、まだ分からないことが山ほどあります。とは言え、より間口を広くとって考えてみれば、言えることもあるでしょう。
ニュー・エイジの思想や、80年代~90年代前半に流行したカルト宗教にハマった若者たちには、ある共通の背景があるとボクは思っています。それは、おそらく、「逃げ場がない」ということ。端的には、終末思想に現れています。
現在を大切に生きてる人にとっての、「世界そのものが終わってしまう」という逃げ場のなさ。そして、もともと息詰まっている人にとっての、「こんな逃げ場がない世界なら、終わってしまえ」という投げやり。そのような二重構造によって、終末思想は逃げ場のなさを現しています。
2.『エヴァンゲリオン』
そこに登場したのが『エヴァンゲリオン』です。サブカル系のおたく文化と、(ニューエイジやカルトなど)終末思想を培った文化とは、親和性が高いとされていますが、『エヴァ』はまさしく、終末思想そのものの世界観ですよね。
この文脈において、『エヴァ』は、オウムの一連の事件によって、カルトに失望した若者たち、そして子どもたちに対して、この「逃げ場のない世界」への、カルトとはまた別の回答を与える役割を、担わせられることになるのです。
でも、結局、『エヴァ』は答えられなかった。答えられなかったということこそが、『エヴァ』の本質だったと、ボクは思っているのですが…もっと言えば、『エヴァ』は、その冒頭で「逃げちゃダメだ」という、あのあまりにも有名な台詞で答えたわけですが、そこで当然生じるであろう、「なぜ、逃げちゃいけないの?」という疑問には、答えられなかったのです。
あのTVシリーズ・ラストの「おめでとう」。あれは、「答えられない、答えられないけれども祝福する」、という形で、その答え自体を、子どもたちに放り投げたのです。言い換えれば、「応援(祝福)はする。答えは自分たちで見つけて」。
こうして『エヴァ』は、その問題を、「祝福するという優しさ」と、「突き放すという残酷さ」とに包み、「なぜ、逃げちゃいけないの?」という形に変換して、社会に対し、子どもたち/若者たちに対して、投げ返したわけです。
3.「セカイ系」の登場
そして、『エヴァ』に対する、ひとつの回答として、『ほしのこえ』をはじめとする、(いわゆる)「セカイ系」が出て来ます。これは、世界そのものを、個人のレベルまで後退させ、セカイと化すことによって、自己の安定を図るものです。
身も蓋もない言い方をすれば、個人の内的世界と、他者の世界(現実世界)との対立によって生じた葛藤を、他者の世界を無視することで、克服するものです。
言ってみれば、引きこもり系とも言えるわけで、これはまた、「逃げちゃダメだ」という、シンジのあの言葉に対する答えとしても、機能しています。つまり、(生きられないくらいなら)「どこまでも逃げろ」というのが、セカイ系の答えなわけです。
4.「サバイバル系」
これに対抗する形で登場するのが、『バトルロワイヤル』を嚆矢とするサバイバル系です。それは、まさに生存競争そのものの世界観です。「勝ち組/負け組」なんて言葉が出て来たのもこの頃でした。宇野常寛さんは、このサバイバル系を、「逃げてるだけじゃジリ貧になるだけだ。だったら戦え」という答えを与えたものとして、高く評価しています。
サバイバル系では、意図的に閉鎖空間が設定され、逃げてるだけでは負けてしまう(死んでしまう)という状況が、登場人物たちに与えられます。つまり、「逃げててもダメだから戦え」ってことです。
たとえば、アニメでは(ボクが見たなかでは)『ぼくらの』がそれに当たるでしょう。あれは少年少女たちの戦いが、そのまま世界そのものの運命に直結しているという点で、一見、セカイ系にも思えます。しかし、あの世界観、与えられた状況は完全にサバイバル系のそれです。
サバイバル系で設定される閉鎖空間は、(逃げ場がない)現実世界のメタファーとして機能します。かつて、人類を取り巻く世界は、余りにも広大でした。言ってみれば、世界は開かれており、人類はどこまでも拡大していくことが出来たのです。しかしながら、移動手段の発達、飽くなき探究心により、いまや、世界は征服され尽くしました。世界は閉じられたのです。
人々は、地球上のあらゆる片隅に住み着き、もはや拡大の余地がなくなった世界の中で、資源は、どんどん蝕まれていきます。限られた資源を奪い取らなければ、肥大していく自らの重み(人口)に呑み込まれてしまう。これが(とりわけ、ボクら日本人にとっては尖閣を巡る闘争で明白になった)現代世界のリアリティであり、サバイバル系の思想の背後にあるものです。
5.いま、再び「セカイ系」を…
でも、ホントにそうでしょうか?良心的兵役拒否なんて言葉もあります。そこには、そういうサバイバル系の考え方に対する、無常観というか、やるせのなさが現れています。ボクもまた、そういう考え方に対して、ある種の嫌悪感を覚えてしまうのです。
閉鎖された世界で、限られたものを奪い合い、戦い合って、滅ぼし滅ぼされていく。それは、余りにも単純な答えだと思うのです。宇宙はこんなに広いのに…
ここで、ボクが、サバイバル系を描写する際に、「世界」という言葉と、「地球」という言葉を、ほぼイコールで結んでいたことを思い起こして下さい。サバイバル系においては、「世界」というのは、(征服し尽くされた)「地球上の世界」とほぼ同義です。
その一方で、「世界」という言葉を、「宇宙」の領域にまで広げてみると、そこには広大な「世界」が広がっていることに気付きます。宇宙に目を向けた時、世界はまた開かれたものに変わるのです。
この、「宇宙」という言葉は、どこか非現実的な響きを持っています。セカイ系もまた、その非現実的世界観に特徴があります。
いわゆる現実世界(=社会)から「逃げる」ということは、内に引きこもるということと同時に、その外(現実世界)のさらに外の世界(非現実的世界=宇宙)に対しての想像力を呼び醒まします。セカイ系は、その内なるもの(精神世界)と、外の外なるもの(宇宙)との結び付きによって生み出されるものです。
現実をスタティックなものと見なし、そこで限られた資源を奪い合うのがサバイバル系の想像力だとすれば、セカイ系の想像力は、現実を越えていくということにその本質があります。
「逃げる」という言葉に潜む惰弱性、そして、「争わない」という姿勢に見られる柔弱さ。しかし何より、セカイ系の想像力にとっては、『涼宮ハルヒの憂鬱』に典型的に見られるように、「世界は書き変えられる」ということこそが重要なのです。
6.結論
ボクは、科学的楽観主義者です。それは、なぜなのかと考えてみた時に、ボク自身が、セカイ系的想像力の持ち主であることに思い至ります。ボクの(いわゆる)「詩」なんて、明らかにセカイ系そのものですからね(笑)
ボクが原子力推進派(現在の日本においては維持派)であるのも、「原子力だろうが何だろうが、科学技術にどんどん磨きをかけて、人類は、どこまでもどこまでも逃げるべきだ」と、「宇宙の遥か彼方にまで逃げるべきだ」と、心の何処かで、そう思っているからなんでしょうね…。
血で血を拭う、あれらサバイバル的な世界観のリアリティよりも、そうした(ある意味では非現実的な)発想の方が遥かにマシだと…。つまり、ボクの思想の根っこにあるものは、そういうことなのかも知れません。
なんだか、最後は自分の話になってしまいました<(__)>