ラオコオン | 想像上のLand's berry

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言葉はデコヒーレンス(記事は公開後の一日程度 逐次改訂しますm(__)m)

 
( ..)φメモメモ

 レッシングはヴェルフリンを引用しながら、次のように述べる。すなわち、ラオコオン彫像の抑制された表現は、ソフォクレスが描いたであろう「ラオコオン」の表現とは違うと。もちろん、ソフォクレスの『ラオコオン』は既に失われているわけで、これはソフォクレスの他の劇作やホメロスなどからの推測である。

 しかし、問題はそこにはない。ここで比較されているのは、まず、劇と彫刻であるということが問題なのだ。詩という概念がこの数百年で変わってしまっていることも踏まえる必要があるだろう。そしてまた、抑制された表現という程度の違いであるのならば、たとえば、テレビの抑制された演技と、舞台の全身を使った演技でも同じことが言えてしまう。つまり、これはあれだ。何らかの点を抽出してみれば、媒体間の表現の違いは言えてしまうわけだ。

 では、詩画比較論という文脈で考えた場合、ここで比較されているのは、と言うよりも、比較すべきなのは何なのだろう。それを(西脇の言うような)ポエジイという抽象的なものと捉えるか、それとも表現に表れた具体的なものと捉えるべきか。まず、ここを考えないと、論全ての前提が崩れ去ってしまう。

 ここで、再び問題はかくのごとくに戻る。すなわち、「詩」とはいったい何なのか。