『ボクらの時代<2>オウム真理教2』
前回の記事を書きながら、91年の「朝まで生テレビー幸福の科学vsオウム真理教」をネットで見ていました。オウムの方は教祖の麻原彰晃を始め上祐、村井、松本知子(麻原夫人)などが出演。まあ、ほとんど麻原が一人で喋ってましたけど。一方、幸福の科学の方は、今は亡き作家の景山民夫さんほか数名がパネリストとして登場していました。
この討論会、興味深いことに、幸福の科学がボロ負けしたって話に(各方面で)なってまして、司会の田原さんも同様の趣旨をのちに仰っています。実際、ボクが見た印象もそれに近いものでした。
そもそも、教祖本人が出てきて、自らのドグマを述べるオウムに対して、下っ端が出てきて、何でもかんでも「先生(大川隆法)の言うことは正しい、なぜなら仏陀の生まれ変わりだから」みたいな話を繰り返す幸福の科学とでは、端から勝負にならんのです。
麻原は、(これも意外なことですが)とても勉強しているように見えました。たとえば、幸福の科学の教義のベースとなっているGLAの創設者(高橋信次)が、生前に言っていた言葉なんかも知っている。また、どんな方向に話を持っていかれても、自分に都合の良い仏典やら逸話やらを引きながら自分の正当性を述べるのです。まあ、あれは論理のつまみ食いみたいなもんで、一種のテクニックなんでしょうが。
ただ、オウムが称する科学的アプローチなるもの、たとえば経典に書いてあることを実験によって実証して確かめるってことも、ボクに言わせれば、その実証の手続き/公平性こそが大事なんであって、科学と構造的にパラレル(ってのは否定してましたが)になっているからって、それが(即)正しいってことにはならんでしょう。そもそも、実証のしようもないもの、たとえば神の存在とか、あとはまあ、なんでも良いや…天国とか地獄とか…それは実証のレベルではなく、信じるもののレベルにあるのです(ゆえにこそ信仰)。
だから、彼らの言ってることは本質的にナンセンスなんだけど、その場は何となくそれで流れてしまう。たとえば、幸福の科学側が、「経典に書いてあることを確かめると(麻原は)言うが、経典はそもそも釈迦本人が書いたもんじゃない」という(珍しく)まっとうな突っ込みをしたと思いきや、その同じ舌で「ウチの先生(大川)は仏陀の生まれ変わりだから、ウチの先生が言うことは全部正しい」みたいなトンデモを言うもんで、相対的にオウムの方がマトモに見えてしまう。
今は亡き哲学者の池田晶子さんが、(それは主に幸福の科学に対してだけど)「神も自分が考えたものじゃないんですか?」とか冷静な突っ込みをしていたのが印象的でした。そりゃ身も蓋もない(笑)でも、そういう突っ込みが出来る人は他にいなかったのです(懐疑派の大月隆寛さんは自分の言いたいことを言うだけで、議論の流れから完全に浮いてましたし。西部邁さんは、あの頃も今と変わらず西部さんでしたな)
1991年。論壇も世間も、今よりも遥かに新興宗教に対して寛容…というか及び腰な時代だった、そんな感じがします。彼らは(「ボクらは」と言い換えた方が良いのかな)、オウムの危険性を見抜くことが出来ませんでした。あの当時、少なくともあの瞬間は、幸福の科学よりもオウムの方が「まとも」に見えたのです。
ただ、その一方で、麻原の、被害妄想的傾向や、独断的傾向(人の意見を聞かないで自分の言いたいことだけを言う)もまた、見て取れました。そしてボクは、この番組を見ながら、何とも言えない奇妙な気分に囚われていました。その気分を表わす上手い言葉があった筈なんだけど…なんだったかな…
それは、ひとつには、ここに座って普通に話している男が、この時、すでに、坂本さん一家を殺害(指示)している男であること。犯罪者が捕まる前にいけしゃあしゃあと(第3者として)テレビのインタビューに答えているような映像をたまに見かけますが、あの感じです。
(先述した)真面目に勉強しているような印象と共に、そのおぞましい現実との間にあるギャップは耐えがたく大きくなりました。表面上の(ある種の)「まとも」さと、その背後にある闇の深さ。これは、いったい、何なのだろう。なんで、こんな平然として話を出来るんだろう。もちろん、その最も単純な答えは、「天性のイカサマ師」だから…なんでしょうが。
でも、それだけじゃボクが言いたいことは汲み尽くせないような…なんと言うのかな…たとえば、今では「オウム」や「麻原」という言葉は、犯罪と分かちがたく結びついていて、ボクらは、そうした目で見てしまうわけですが、その当時、見ようによっちゃオウムが「まとも」に見えたって事実は、割りと本質的なことなんじゃないかと思うんです。
もちろん、ボクはこの言葉で、オウムがホントに「まとも」な組織だったと言いたいわけではありません。もちろん、オウムは「まとも」ではなかったのです。でも、ボクらには、それを見分ける術がないかも知れない。その戦慄。ボクらは、心のどこかで、犯罪者を見分けることが出来る(=犯罪者は犯罪者面をしている)と思っているわけですが、それは(後知恵による)単なる思い上がりかも知れない。犯罪組織は、端から犯罪組織の顔をして近付いてくるわけではないのです。そのジレンマ。
もうひとつは、この時、比較的「まとも」に見えた方のオウムが(まあ、すでに犯罪組織だったわけですが)この後、社会を揺るがす事件を犯し、そしてその教祖が死刑判決を受けているのに対し、ブッ飛んでいるように見えた方の幸福の科学は、いまでも大手を振って布教活動を行い、(惨敗したとは言え)公然と国政選挙に打って出ている。
今回、ウチの地元では幸福実現党の出馬は無かったので、あまり選挙活動は見かけませんでしたが、先日も地元の駅前で、(「緊急出版」だったかな?)大川隆法の書籍をアピールしているグループがありました。
上述の「朝生」では、もう(生まれ変わりであると)思い込んでしまって、議論の入り込む隙間もないような幸福の科学側パネリスト(「先生の本を読めば分かるんです」「いや、分からんかった」「それは勉強不足です」)と同時に、無闇に興奮してアジテートする観客席の幸福の科学信者の姿が印象的でした。
そこには、(ボクにとっては)どうしても受け容れがたいところがある…彼らは、なぜ、いまでも公然と活動を行えているんだろう。もちろん、それは単純な話で、幸福の科学は「地下鉄サリン事件」を起こしていないから…。ただ新興宗教であるというだけでは、当然、取り締まることなんざ出来んのですし、すべきでもありません。
でも、ボクのこの感じ、この番組を見る限り、一見、幸福の科学よりもオウムの方がまだ受け容れられるという感じ、しかして、そのオウムの実態は非道な犯罪組織であるという事実、その実際の犯罪行為の受け容れがたさ、おぞましさ…その間にあるギャップ…これは、いったい、なんなんだろう。これを、どう理解すれば良いんだろう。
ここで2つのものを4つのものに分けるという提案は余りに安易でしょうか…つまり、幸福の科学的なものとオウム的なもの、そしてそのそれぞれの犯罪的なものとそうでないもの(幸福の科学に犯罪的なものがあるかどうかはボクには分からんですが)。
ここで、問いは次のようなものになってくるでしょう。つまり、オウム的なものが必然的に犯罪に結びついたのか。それとも、何か他の道はありえたのか。もちろん、そのオウム的なるものは、教祖麻原の考えと分かち難く結び付いているわけで、その彼は(信頼する側近以外には漏らさなかったものの)その当初から武力的な革命思想を持っていたことが(近年)明らかになっていますから、この問い自体がナンセンスかも知れません。
しかし、ボクがここで問いたいのは、オウムそのもの、麻原の思想そのものではなく、オウムに入り、(結果的に)犯罪に荷担した若者達が、何か犯罪に荷担せずに済むような、そして彼らが求めたものを与えうる代替物はあり得ただろうか?という問いです。それは、彼らを引き込むことが出来るという一点においてのみ、オウム的なものと呼ばれるべきなのかも知れません。
――前言撤回――
それとも、これは単にオウム真理教を擁護する試みになってしまうでしょうか?それはボクが全く望むものではありません。しかし、また同時に、ボクは出来る限り真っ直ぐに物事を見ていたい。この話は、これ以上、進めるべきではないのかも知れません。これを、そのまま次回のエヴァにつなげることも出来るでしょうが、どうも、それも上手くいかないかも知れません。ここで一端、リセットすることにしましょう。次回は、余り繋がりを意識せずにエヴァの話をしたいと思います。その上でまたオウムの話が出来るかも知れません。出来ないかも知れません。それは、やってみないと、分かりませんね<(__)>
余談ですが…幸福実現党の比例得票は20万票強だったらしいですね。幸福の科学も思ったほど大した勢力でもないんですよね。一方、ちゃっかり与党に入っちゃってる党もありますが…←色んなところに毒を撒き散らす人(笑)
あの党の比例得票は約700万票で、前回より100万票余り減ってるのですが、議席数は逆に増えちゃったんですよね。まあ、その理由は簡単で、分母の方(投票数)がドカンと減ったから…だから、(無党派層は)やっぱり比例だけでも投票した方が良いな~と思うわけです…って、しつこいですね。余計な話でした<(__)>
しっかし、100万減ったとは言え700万って…日本人の20人に1人は…ってことですね(;一_一)