ボクらの時代<1>オウム真理教1 | 想像上のLand's berry

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言葉はデコヒーレンス(記事は公開後の一日程度 逐次改訂しますm(__)m)


『ボクらの時代<1>オウム真理教1』

 最近、ボクはサブカル系の文化論というか社会論というか、要は、東浩紀さんとか宇野常寛さんとか、その辺りの本を読んでいるんです。

 そこにおいて、90年代のキーワードとして、2つの言葉が出てきます。ひとつは「エヴァンゲリオン」、もうひとつは「オウム真理教」(オウム自体はサブカルではないですけどね)。この文脈において、「エヴァ」はオウム(というよりも、オウムに若者達を持って行かれた社会)に対するアンサーとして読み取られます。

 エヴァに関する話は次回以降に回すとして、今回はオウムの話をしましょう。ちょうど先日、何度目だかの「滅亡」の危機を人類は乗り越えたわけですしね(* ̄艸 ̄)

 良い機会なので、NHKオンデマンドで「オウム真理教ー17年目の真実」という番組を見てみたのです。そこで語られたストーリーは、平凡な人が群集心理(と恐怖)によって犯罪に加担していくというものでした。(服従心理という点で)アイヒマン•テストみたいな感じもありましたかね。

 もちろん、その集団なるものが麻原彰晃という特殊な思想(武力的な革命思想)を持った人に導かれていたということも重要なわけですが、ボクは、それには興味を持てません(麻原彰晃に興味を持ったことは一度もないのです)。むしろ、優れた知性を持っていたはずの若者たちが、なぜあのような(見るから)イカサマ師に着いていったか、普通の青年たちが、なぜあのような犯罪に加担していったか、ということについて考えさせられます。

 思い返してみれば、あの95年、オウムを巡る論争を、ボクはリアルタイムで見ていました。(今では伝説となった)「朝生」に登場していたのは上祐史浩/村井秀夫/青山吉伸の3人でした。そこで(当時、十代半ばだった)ボクが受けた印象は、「思ったより真面目な人たち」ってことだったのです。素直に白状するならば、あの「ああ言えば上祐」という話術に、ある種の感銘を受けたとすら言っても良いかもしれません。

 まあ、上祐は(広告塔ということもあって)犯罪行為に直接的な関与をしていなかったらしいので、(ボクの感じ方は)その辺の事情もありますかね。ボクは、その一方で、村井には何とも言えない違和感を覚えていた気がします。上祐は今回のドキュメンタリー(2012年制作)にも登場していました。「麻原」と呼び捨てにする姿が印象的でしたね。

 注:ここで言明しておきますが、ボクはオウムの一連の犯罪行為を擁護する積もりは一切ありませんし、彼らに対する同情心も一切ありません。あの一連の事件はホントにムナク○が悪くなりますし、オウムそれ自体もただのカルト犯罪組織だと思っています。

 もっと言えば、ボクはいかなる宗教とも無縁…というのは少し嘘だな…たとえば神社に行けばお参りしますし、仏壇には手を合わせます。ですが、特定の宗教に対する信仰は持っていませんし、そもそも、保守派宣言3で述べているように、ボクが自分を保守派と呼ぶ時は、(宗教/思想問わず)、いかなる原理主義的なものとも距離を置くという言明なのです。

 ここでは、まさに、あの時代のチルドレンだったボクが、どういう風にあれら一連の事象を捉えたかという、素朴な証言として、そして自分自身の問題として語っています。

 少し調べてみれば、オウムの幹部には、大学院卒とかいわゆる知的エリートが多いことが分かります。彼らがいったいなぜ、あのように怪しげなものにハマッていったのか。ボク自身(時代も大学のレベルも違いますし、自分を知的エリートだとは思いませんが)、大学院というものにいて、少し思うところもあるわけです。それは、極端に狭い世界だということ。未だに師弟制度みたいなところがあるんですな(もちろん、それに良いところも悪いところもあるんでしょうが)。

 つまり、世界が狭いということ、それが重要なんじゃないかと。受験社会のエリートなんてものは、物心ついてから学校以外の世界を知らんでしょうし。もちろん、これではオウムの幹部たちについての説明にはなっても、普遍的な説明にはならないかも知れません。むしろ、逃げ場がないということが問題なのかな…それは物理的にもそういう場合はるだろうけど、たとえば、必然的に迎える死とか、人が人である限り背負っているもの…そういうものに対しての距離感の取り方が、分からない(ということ)。

 狭い世界で育ち、純粋培養された(言ってみれば視野の狭い)人間が、あるいは逃げ場がないと感じた人間が、世界そのものに違和感を覚えた場合、何か(救いを感じたものに)にポーンと依存してしまう。それは、宗教かも知れないし、他の何かかも知れない。それは分かります。

 あるいは、そうして依存したのが、たまたまタチの悪いカルトだっただけかも知れない。でも、ボクには理解できないことがあります。ボク自身は純粋培養ではないけれど、酒も飲まない、タバコも吸わない、肉も(自らは)食べない、って感じで、むしろ、そういうものに最もハマりそうなタイプかも知れない。でも、違う。違った。それは何故だろう。何処が違うのだろう。

 もっと言えば、世界(それは自分の周りにある狭い世界かも知れないし、その背後にあるもっと抽象的な世界かも知れない)に違和感を覚えた時に、他の何かに依存してしまうということが、ボクには意味がないように思えてしまうのかも知れません。それは、ある意味では、ボクが強いからかも知れないけれど。依存してしまうということは、とても簡単な解決策だと思うのです。何かを絶対的なものだと考え、それ以上に考えなくなってしまう。もちろん、ボクも気付かぬ内に、何かに依存しているのかも知れない。

 でも、たとえば、自殺したいくらいに、自分と世界とが堪え難いほど乖離してるんだったら、新興宗教にハマろうがなんだろうが、自分が救われるなら、それでも良いとボクは思います。もちろん、人に迷惑をかけなければの話なんですが。

 だから、ここには2つの論点があって、ひとつはなぜ新興宗教のようなものにハマってしまうか。そして、もうひとつはなぜ、オウムは犯罪組織になったのか。