松江泰治展:世界・表層・時間 | 想像上のLand's berry

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言葉はデコヒーレンス(記事は公開後の一日程度 逐次改訂しますm(__)m)


IZU PHOTO MUSEUMにて「松江泰治展」。

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 松江の写真は二重の仕方で、ぼくらに写真的視覚を強調する。

 一見、ジオラマのような風景。近くで見ると、細部に宿る物語によって実際の風景であると分かる。その細胞のような細部には物語が宿っている。車、人。写真の中で、時にそれはブレている。あたかも完全に描写されているような写真の中にブレがある。生命の躍動。その細部に宿った物語は、これがオモチャなどではないということを僕らに教える。

 しかし、その距離は写真のもうひとつの特質=ノイズをも露わにする。細部を見分けられるほど近くで見るということは、同時に写真的ノイズをも見分けられるということ。ミクロなものに宿る生命、そして変換された現実。松江の写真は、ここに写されたものが作り物などではない(実際の風景)ということと同時に、それ自体が(写真という)作り物であるということを明らかにする。

 それは映像ではなおさら明らかだ。まるで静止画のような映像。しかし、これを映像だと知っているボクらは、そこに何か動きがあるんじゃないかと期待する。隅々まで見回してみても、動いているものを見つけられない。しかし、画面がチラチラしている。何かが息づいているような息吹を感じる。これは生命の世界。予兆。ふと、影が動いていることに気付く。画面全体を覆うような大きな影が、ゆっくりゆっくりと動いているのだ。素晴らしい。空と大地の物語。

 注視しているところ以外は、ボケて見えるのが人間的視覚。いかにレンズが細部まで描写しようが、それは人間の視覚とは違うものだ。だから、写真は一方で人間的な視覚を追い求めてきた。それをボケという形で示したのが、たとえばリヒターだったりする。リヒターは、ボケの効果によって、あたかも写真のように見える絵を描いた。

 しかし、松江は違う。細部まで描写された彼の写真は、写真的視覚のもうひとつの側面に気付かせる。それはたとえば、アンセル・アダムスなどが追い求めてきた、「対象の忠実な再現」という写真の特性。そして、映像を用いることで、松江は人間的視覚と写真的視覚のズレ、すなわち写真的視覚に2つの相があることに気付かせる。マクロ的無機質的な対象描写と、人間的ミクロ的な主観描写という2つの相が松江の映像には共存しているのだ。

 松江の写真は二重の仕方で、ぼくらに写真的視覚を強調する。