写真徒然7<写真の詩学のために2> | 想像上のLand's berry

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言葉はデコヒーレンス(記事は公開後の一日程度 逐次改訂しますm(__)m)


1.
 西脇順三郎の言う、詩作(詩の作品そのもの)とポエジイ(詩に内在する精神=詩的精神)の違いを考えてみよう。両者の関係を、構造と原理という言葉で捉えてみたい。ここで言う「構造」とは、文字通り詩作の構造であり、韻律や隠喩などがこれに当たる。これは、ポエジイを表現するための手段である。そして、「原理」とは、そのポエジイ(詩的精神)そのものであり、ひとつの詩作が表そうとするところの根源である。両者を、詩の形態(構造)と内容(原理)と言い換えても良いかも知れないが、この内容は原理である限り、その形態=構造に必然的に影響を与えるものである。

 我々が言わんとしている「詩的写真」とは、そのポエジイを写真によって表現したものだと考えられはしないだろうか。それに答えるためには、ひとつ手順を踏まなければならない。ここでまず、問われなければならないのは、「詩的なイメージ」とはどのようなものであるかということだ。写真は畢竟、二次元芸術=イメージだからである。「写真の詩学」を「イメージの詩学」から分離するのは、その後の作業になるだろう。

2.
 「詩的なイメージ」を考えようとする時、そこには二つの方向性が考えられる。

 ひとつめは、「詩的イメージ独自説」である。これは詩的イメージというものが、ポエジイ(原理)から独自に引き出されるという考え方である。言語による詩作にも、韻律がない詩作があるということは、詩作の典型的な構造を持たずとも、ポエジイを持っている詩作があるということだ。これは、たとえ構造が異なったとしても、ポエジイが表現されうるということを示唆する。

 構造(詩作)が原理(ポエジイ)によって影響されるのだとしても、その表れ方は、媒体によって、はたまた、それを表す人の特性によって、様々に異なり得る。これが第一の立場の前提である。しかし、また一方で「あらゆる原理は現象の観測から導き出されなければならない」というのも真実である。「詩」とは、何よりもまず、言葉による詩(詩作)から生じた概念であるから、そこから導き出されたポエジイなるもの(原理)もまた、言葉による詩(詩作)の特性(構造)から生じていることになるだろう。

 こうして、二つめの立場が生まれることになる。それは「詩的イメージ翻訳説」である。つまり、時間的芸術である詩作の構造(語順/韻律など)が、空間的芸術であるイメージの構造(色彩/構図など)に翻訳されたものとして、詩的イメージを考えるということだ。これは、たとえばイメージの中に韻律や隠喩を見つけるということである。

 実際、韻律を持ったイメージは数多く存在する。音楽的なイメージと呼ばれるものも、その一例であろう。音楽的イメージと言われる時、それは色彩の感覚を引き込むかも知れないが、大抵の場合、イメージにおける韻律は、パターンの繰り返し(韻に相当)や、視線の動きを導く構図であるだろう。また隠喩的なイメージというのは、十字架を筆頭として、それこそ数多存在する*1。

 現時点において、ぼくは、これら二つの説の内、「どちらが正しいか」を定めていない。その答えは、おそらく、実際に詩的なイメージと呼ばれているものの分析から生まれてくるものであろう。



*1.ただし、ボクは「寓意画」が(「翻訳説」の意味における)詩的なものだとは考えていない。宗教画は寓意によって概念を空間の内に取り込むが、その場合、寓意を表すもの(媒体/記号)は、概念の単なる奉仕者と化してしまっている。詩は何よりもまず媒体/記号そのもの(詩作の場合は言葉)に比重がなければならない。