『のぼうの城』
2011年日本、145分
監督: 犬童一心 、樋口真嗣
主演:野村萬斎
概要
戦国末期、豊臣秀吉、石田三成勢の2万人の大軍に屈せず、たった500名の兵で抗戦、勝利した実在の武将・成田長親の姿を描く時代劇。『ゼロの焦点』の犬童一心と『隠し砦の三悪人 THE LAST PRINCESS』の樋口真嗣が異色のダブル監督に挑み、第29回城戸賞を受賞した和田竜のオリジナル脚本を映像化。“のぼう様”と呼ばれたヒロイックな主人公を野村萬斎が熱演するほか、佐藤浩市、山口智充、成宮寛貴らが城を守る侍大将を演じる。底知れぬ人気で人心を掌握した主人公の魅力や、豊臣・石田軍による水攻めシーンなど、見どころ満載の歴史大作だ。(Yahoo!映画より)
感想
成田長親とはまた、どえらいマイナーな武将に目を付けたもんだ。こんなマイナーな武将まで取り上げて行ったら、戦国中が英雄だらけになってしまうんじゃなかろうか、という疑問はさておき、目の付けどころはなかなか面白い。
これを撮ったのが、『日本沈没』で日本中の映画ファンを沈没させた樋口監督と、心理描写を描かせたら右に出るものが一杯の犬童監督。とどめに、制作を担うのが、「良質なコンテンツもボクらの手にかかれば二束三文」でおなじみのTBS。
正直、こりゃあ、余り期待できんぞ…と、思いきや、これが意外と面白い映画だった。 実は、コント的な要素もある映画(まあ、間を外してるところもあるけれど)。娯楽性という点では素直に拍手することができる。成田長親を演じる野村萬斎さんのクセのある演技も、ひとつの世界観を作り上げている。後に書くように、チグハグなところもある映画なんだけれど、彼がいることで、映画全体が一つのまとまりを得ている。
さて…持ち上げておいたところで、やっぱり、突っ込みたいところは多々ある。もちろん、娯楽作品だから、時代考証とかリアリティとかいらないという考え方もあるだろう。でも、それは歴史物の楽しみ方としては余りにも安い楽しみ方だと僕は思う(決してそれを否定する積もりはないけれど)。ただ1人の想像力を遙かに越える歴史の真実の深み、それを汲み尽くす努力をしないならば、史実を元にした歴史物なんて作る必要はない(それならば、フィクションで充分)。
たとえば、同じ主題の歴史画を描くにしても、主題の背景を分からないから描けてないというのと、(カラヴァッジョのように)分かっているけれど、それを踏まえた上で敢えて崩して描くというのとでは、天と地ほども違う。それは表現の上でもね。だから、鑑賞者としても、そうした文脈/前提を踏まえている方が、より見方に深みが出る。歴史物というのも、そういうようなものだとボクは思うのだ。
ではさっそく、何点かに分けて突っ込んでいくことにしよう。もちろん、完全にネタバレになるのでご注意を。ネタバレしたくない人のために、取り敢えず、映画全体の評価を先に書いておこう。
突っ込みどころは多々あると言えど、娯楽性は高く評価できるので☆4つ。だけど、EDテーマ(エレカシ自体は僕は好きだけどね)と、エンドロールの蛇足的な映像が、全くもって頂けない。完全に世界観を壊してしまっている。だからEDで0.5を引いて、結果的には☆3.5という評価。まあ、映像のセンスもいまいちだし、余り時代の風を感じる作品ではないわな。
☆☆☆★(3.5)
以下、ネタバレ注意!
『ツッコミ編』
1.水攻め
冒頭、高松城の水攻めの場面がある。もったいぶって、もったいぶって、展望が開けたところでザッパ~ン。のちの忍城水攻めの場面でもザッパ~ン…この映像のインパクトで観客を引きつけたかったんだろうけれど、僕の感想は「あ~、やっちまったなこれ…」
この映画のプロデューサーは、のちに震災の映像を見て(この映画は2010年撮影)、「同映画の「水攻め」描写は大震災を予見していたかのようなリアリティであり、スタッフの優秀さに驚かされたという-wiki」だって。何を言ってんだい。津波と水攻めの違いも分からんで作っているんかと。そもそも、水の勢いが全然違う。
水攻めの場合、まず堤防を築き、川を堰き止めて(あるいは引き入れて)、堤防の内側を水に沈めていく。つまり、城のまわりにダムを作るようなもの。だから、一朝一夕には水が溜まらなくて、堰き止められた川の水で堤防内が徐々に浸水していく。そんなもん、ビーバーだって知ってる。ましてや、忍城の場合、周囲が湿地帯のため、当初は思うように水が溜まらなかったとも云われている。
一方、映画では、堤防をすべて築き上げたあとに、どっか上流地点の堰を切ることで、水が一気に流れ込み、そして、堤防の内側があっという間に水中に没するという描写になっていた。けれど、あれだけの水が一気に流れ込むためには、堰を切った地点に「同じ規模の水溜り(ダム)」がないといけない。そう、驚くなかれ、秀吉/三成は、それぞれの水攻めにおいて、同じ規模のダムを上流にもう1つ作っていたのだ。当然、労力も2倍…って、んなアホな。いくら秀吉が派手好きだからって、そりゃあいくらなんでも、無駄過ぎでしょ。
演出上、派手にしたかったってのは分かる。でも、これは主題に関わる重大な変更だと思うのだ。周囲が徐々に沈んでいくことによるジワジワとした恐怖と、周囲から一気に水が押し寄せてくるというパニック映画のような恐怖とでは、描き方もまったく異なる。それは、物語の進行、映画の世界観全体にすら影響を及ぼしかねない違いだ。
2、誰がための戦い
設定上、「のぼう」は、農民を愛する武士であるということになっている。その「のぼう」がなぜ、(不在の)主君の命を破ってまで豊臣家と戦端を開いたのか、なぜ農民を戦火に巻き込むような決断をしたのか。それがまったく分からん。
実際に戦闘があったわけだから、(史実上は)戦う理由はあった筈。それが、この映画からは、まったく見えてこない。ぶっちゃけた話、その理由は何だって良いと思うのだ。北条家を裏切れないような硬骨漢だったとか、あるいは、民草を守るために敢えて戦いを選んだとか。それは人物設定によって、どうとでも選べたろう。
でも、この映画における成田長親は、単に長束正家の態度が気に食わず、「(降るのは)いやじゃ」と言って開戦を決める。その決断は、与えられていた筈の設定(農民を愛すること)と余りにも矛盾している。いくらなんでも、それじゃ周りもついてこんだろうとも思う。だから、ここには、どうしても説明が欲しい。
この不可解さは、最後までボクに付き纏った。一体全体、何のための戦さなのか。それが、ボクには分からなかった。戦っていた農民たちだって意味不明だったろう。意味不明なまま戦って、士気が保てるだろうか。そうは思わない。だから、これはおそらく史実とはかけ離れている。戦うには戦うなりの理由が説明されなければならない。それは、観客に対しても、(劇中の)農民/兵士たちに対しても。
まあ、戦の前、壇上で叫んだ「戦に決してしもうた、みんな、ごめ~ん!(大意)」で物語上は回収しているようにも見えるけどね。でも、やっぱり、納得はいかん。
それと、(戦に決したのは)甲斐姫のためとも匂わせるようなところがあり、それは後々の伏線にもなっていて、この線から考えると(物語上の)開戦の理由は分かる。でも、それだと幾らなんでもバカ殿すぎるだろうから、作品上もハッキリ言い切ってはいないし、こちらとしても、それじゃあ感情移入できん(大体、甲斐姫が秀吉に求められたのは、実際には、もっと後の話だしね)。
それから、この映画には、「長いものに巻かれろ」的な考えに対するアンチテーゼの側面がある。たとえば、三成(引いては映画そのもの)は、腐った世の中でも剛直な生き方をする人間を求める。それはそれで良いと思うんだけど、長親が決断する場面の不可解さは、このアンチテーゼの犠牲になった感もある。
つまり、農民を愛する武士としての長親の(設定上の)性格と、件のアンチテーゼから来たと思しき、「長いものに巻かれてなるものか」というもうひとつの性格の間に、埋めることのできない断絶が生じ、結果的に、後者の性格が優先されることで、前者の性格が犠牲になっているのだ。こうして、件の場面での長親の行動は(物語上)整合性が取れないものになってしまった。これは、単純に作者の力量の問題だと思う。
3.時代考証
まあ、成宮くんの茶髪は良いことに…う~ん…まあ、しよう。ぐっさんやら、榮倉さんやら、平泉さんやら、おなじみの面々の存在が、鑑賞者を映画外の現実(現代)へと引き戻してしまうようなところも良いとしよう(ホントは良くないけど)。「戦国後期にその甲冑?」みたいな侍大将もいるけれど、一応、兵卒クラスはそれなりに「らしく」描かれている。
問題なのは、城攻めの場面。とりあえず、攻めづらい地形の感じは出しているんだけど、守備側の戦いがどう考えてもおかしい。確かに、籠城といえど、城の中に籠もるだけが戦術ではない。だけど、なぜ、わざわざ相手が陣を構えているところに、守備側が真っ正面から突っかけなければならんのか。最低限、地の利を生かしたような描写になっていなければダメでしょ。
大体、単騎で突出するとか有り得んし。ぐっさんなんか、まるで長坂橋の張飛みたいだったよ。「三国志かよ!」と。戦国後期だよ、そんなもん、鉄砲で狙い撃ちされてオシマイに決まってるでしょ。そういうのが娯楽性の要素だとは、ボクにはどうしても思えん。比較に出す積もりはなかったけれど、黒澤監督だったら…まあ、そんな「エセ娯楽性」を入れんでも、十分、魅力的に撮っただろうに。
城攻めに伴う種々の駆け引き、攻防。機動上の有利不利。幾重にも築かれた防衛線、仕掛け。射線、縄張りの概念。そういったものが十二分に描かれてこそ、この映画は本物になったんじゃないのかな、とボクは思う。大体、見せ場の筈の城攻めシーンが、妙にあっさり終わった印象がある。たしか、(史実では)水が引いたのちも攻防戦があったはずだよね。
それから、初日の戦があった後に、城中に居たはずの農民やら僧侶やらが村に戻っているような描写があったけど…ありゃあ、いったい何じゃ?忍城の縄張りは、総構えってことは無いと思うから、あの農村が城郭の中ってことは考えにくい…となると、籠城の真っ最中でも、城内と農村の往来は自由だったって設定…なの?それって包囲した意味ある?
(また逆に、これは守備側から見てもおかしな話。たとえば、そういう状況でボクが寄せ手の大将だったら、そうした農民の中に間諜を何人も紛れさせる。そして、本格的に攻めるフリをして城内に農民を収容させれば、そのドサクサに紛れて間諜も城内に侵入できる。そうなったら、もう城は落ちる)
水攻めの件といい、この城攻めの件といい、樋口さんの作品にシミュレート的な要素を求めちゃいかんのだな…きっと。『日本沈没』で余りにも明らかなように、あの人はまったく現実をシミュレートできんのだもん。
4.ご当地映画
本当に蛇足だと思ったのが、エンドロールのご当地(の現代の)映像。「現在はこんな場所ですよ、是非来てね」という雰囲気が丸出しでドン引きしてしまった。なんだか、2時間半かけてご当地のプロモーション映像を見させられた気分になった。思うに、作品は作品世界の中だけで閉じておいた方が、作品の聖性というかアウラというか、そういうものは傷つかないで済む。そういう聖性があればこそ、ご当地も聖地として機能するのではないか。
確かに、歴史物やファンタジーものにおいて現代の映像を最後に流すというのはある。たとえば、今井さんのウインズ・オブ・ゴッドなんかは、そういう映像を効果的に用いて、現代と過去との落差/繋がりを浮かび上がらせている。でも、そのためには文脈/必然性が必要だし、見せる力も必要。この映画のように、ただ単に現在の忍城周辺を見せられても、カタルシスも何もあったもんじゃない。