地球が静止する日(3.0) | 想像上のLand's berry

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言葉はデコヒーレンス(記事は公開後の一日程度 逐次改訂しますm(__)m)

 
『地球が静止する日』
THE DAY THE EARTH STOOD STILL
 
2008年アメリカ、106分
 
監督:スコット・デリクソン
 
主演:キアヌ・リーヴス
 
概要
 『ウエスト・サイド物語』『サウンド・オブ・ミュージック』の巨匠、ロバート・ワイズ監督が1951年に発表した『地球の静止する日』をベースにしたSFアクション。キアヌ・リーヴスふんする宇宙からの使者の到来とともに、地球最後の日へのカウントダウンが始まるというストーリーが展開する。監督はホラー映画『エミリー・ローズ』のスコット・デリクソン。50年以上も前の名作が、CG技術によって大迫力のカタルシス映像に生まれ変わる。(Yahoo!映画より)
 
感想
 大抵、この手の映画で失敗するのは、身内だけでグルグル回っているような印象を与えるものが多い。この映画もまさにそれ。地球の危機を扱っているのに、出演者15人ほどの舞台でも作れちゃうんじゃないか、というような感じ。それならそれで、(多くの舞台がそうであるように)ミクロなレベルの話に焦点を合わせれば良いものを、なんだか妙に構えが大きい。それがかえってコケオドシの印象を与える。
 
 思うに、構えの大きな物語を作るためには、2つの極の相違をわきまえる必要がある。1つの極はミクロな視点。たとえば、上層部の決定など知るよしもなく、主人公達が次から次へと翻弄されていき、観客の心理もそれに引っ張られるというような物語がそれに当たる(ただし、マクロな視点から見ると、その物語は一つの大きな絵の一部であって、設定上ちゃんと繋がっている必要がある)。これはガンダム的なやり方と言っても良い。
 
 もう1つの極は、当然、マクロな視点。戦略級の視点と言い換えても良いけれど。これは、その性質上(主人公1人に焦点を合わせるよりは)群像劇として描かれることが多い。銀河英雄伝説が典型的な例。
 
 もちろん、ミクロなものの積み重ねがマクロになるのであって、その2つは決して相容れないものではなく、併存することが出来る。たとえば、ロード・オブ・ザ・リングでは、その2つの極が同時進行で描かれている。ひとつはフロドの物語として、もう1つは世界全体の状況-とりわけ会戦-として。
 
 ただし、ここで気をつけなければならないことは、両者を併存させるためには、その両者を同じ原理で扱ってはならないということ。それはロード・オブ・ザ・リングを見れば明らかなんだけど、たとえば、フロドの物語場面と、会戦の場面とでは、(寄せ⇔引きの視点はもちろんだけど)テンポも違えば心理描写も違う。前者がじっくり/暖かだとすれば、後者は素早く/冷たい。この2つのものの棲み分けによって、この映画には、非常に大きなスケール感が与えられている。
 
 もし、誤って、この2つのものを同様に扱ってしまうのならば、その焦点は曖昧になり、ミクロなものとマクロなものの区別は消失するだろう。そして、結局、大きいんだか小さいんだか分からない、スケール感がない映画が出来上がってしまう。この映画-『地球が静止する日』-は、まさにそういう失敗を犯している。それは思想がどうとか、それ以前の問題。
 
☆☆☆(3.0)