(↑で引用している記事についてのレスポンス)
なんかさ…英雄気取りの記者が悪を退治している積もりで、誰にも検証できんことを書いてさ、それを馬鹿な連中が鵜呑みにするって構図は吐き気がしてしまうんだが。テーブルに載せるなら、せめてちゃんと検証できるものにせんと話にならんよ。それがないと誰でも何でも言えてしまう。嘘だってつき放題。
「ぼくらは火星人に会った。友人がビデオ撮影もしたけれど、国家権力を恐れて友人は公開を控えた。勇気を持って公開すべきだった。」…これも検証不可能な話だが、荒唐無稽な話は、そもそも誰も信じない。タチの悪いのは、いかにもありそうで、かつ検証不可能な話だ。こうして真実は汚されていく。
「ぼくらは福一の悲劇を繰り返しちゃいけない」…そんなことは当たり前なんだ。推進派だって誰だってそう思ってる。だからこそ、ちゃんと書かなければいけない。ちゃんと、考えなきゃいけない。目的のために手段を選ばないってんじゃ、ぼくらが犯したミスと、原子力政策が犯したミスと同じなんだ。
ぼくは彼が嘘をついているとは言わない。それを検証できないことが問題なんだ。政府/マスコミが情報を隠蔽してると批判しつつ、こういう記事は無条件に信用してしまう連中。その時点で既に思考にバイアスがかかっているんだってことに気付けよ。論理ってのはピュアなものなんだ。その汚い手で汚すな。
「事実」のレベルと「信じる/信じない」のレベルを一緒にしていることが何より問題。大衆は見たいものを見るし、信じたいものを信じる。それによってどれだけの悲劇が起きてきた?だからこそ、その2つのレベルをきちんと分けることが大事。良くそれで「報道の作法」が云々とか言えるよ。
ぼくは様々な事実(数字だったらその根拠)を積み上げていって、その上で国民(ないしは国民を代表する議会)が判断したら良い(し決まったことには従う)と思っているけど、現状は、様々な「解釈」によって事実が見え難くなっている。だから、一旦、全ての解釈を外して生データだけを見る必要がある。
推進派諸君、この戦は玉砕戦である。最後の一兵卒に至るまで戦い抜け。裁判でも被告人には反論の機会が与えられている。徹底的に論を戦わせることで真実が明らかになるのだ。ただし、ルールに則りフェアにやらなければならない。どちら側であろうが、恣意的に論理を操り事実を弄ぶ人間を僕は許せない。