支配者なき世界へのオマージュ4 | 想像上のLand's berry

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言葉はデコヒーレンス(記事は公開後の一日程度 逐次改訂しますm(__)m)


『支配者なき世界へのオマージュ4』


ホントは、この連載、前回で終了だったんですが(笑)

ちと、思いついたことがあったので追加<(__)>


現代において、社会像を提示することの不可能性について。


ガルシア=マルケスの『百年の孤独』では、

マコンドという村の興亡が描かれています。


この村は孤立しており、基本的に外部と断絶しています。

その中で中心となるのはひとつの家族です。

最初は一組の夫婦が、そして子供たちが描かれる。

やがては一族のサーガが100年分描かれていき、

それがマコンドの興亡と一体化しているのです。

ここには、ひとつの社会像がある。


1人と1人が出会うと、そこには既に社会の萌芽があります。

クローズされた状況のミニ社会を設定すれば、

作家は1人1人を把握でき、社会を描き切ることが出来ます。

例えば、ひとつの教室、ひとつの村。


作家が把握できないほどの数の人々が登場すると、

主要人物以外の人間はやがて中身のない記号と化してしまいます。


かつて、大きな物語が語られていた時代には、

そこに「共産主義者」だの「支配者」だの「大衆」だのを代入して、

社会像を仮に機能させることが可能だったのです。


しかし、それ(大きな物語)は、もはや存在しません。

現代においては「世界に一つだけの花」の価値観が至上のものとされます。

個人個人は孤立して、他の何かで語ることは不可能になってしまったのです。

もはや、何かを代入して、社会像を仮に機能させることはできません。


シミュレートの基礎となるパラメータが無意味になってしまうと、

結局のところ、シミュレート自体が機能せずに無意味なものになってしまう。


現代において、社会像を提示する不可能性とは、

つまり、そういうことなのかな…と。