詩的写真6(おさらい) | 想像上のLand's berry

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言葉はデコヒーレンス(記事は公開後の一日程度 逐次改訂しますm(__)m)


さて、次からはケルテスを取り上げようと思うのですが、

その前にちと、おさらいをしておきましょう。


思えば、レッシングは、その著書『ラオコーン』において、

詩の本来的な対象は継起的(時間的)な対象であり、

絵の本来的な対象は並列的(空間的)な対象であるとしています。


ぼくが、前回、前々回と叙事詩と関連させて、

アトラスシリーズ(リヒター)やプラハ侵攻シリーズ(クーデルカ)など、

一連の写真からなるシリーズものを取り上げてきたのは、

まさに、そのことにダイレクトに結び付くものです。


つまり、本質的に静止的な表現である写真において、

時間の流れを生み出すにはシリーズものにするしかない。

ここにこそ、一枚の写真が叙事詩にはなりえない理由があります。


しかしながら、叙情詩ということを考えた場合はどうでしょうか、

これはまた、別なのではないでしょうか。

なぜならば、感情は瞬間にこそ宿るものだからです。


したがって、ある写真家の一枚の写真が詩的であるとされる場合、

そこには、叙情詩的な要素が強く含まれていると考えることができます。

つまり、それは、写真家が対象について「感じたこと」が写っている写真、

言い換えれば、主観的な表現がなされている写真ということになります。


アンドレ・ケルテスは、写真史上において、もっとも偉大な「詩人」です。

次回からは、ケルテスを数回に渡って取り上げる予定です<(__)>