さて、次からはケルテスを取り上げようと思うのですが、
その前にちと、おさらいをしておきましょう。
思えば、レッシングは、その著書『ラオコーン』において、
詩の本来的な対象は継起的(時間的)な対象であり、
絵の本来的な対象は並列的(空間的)な対象であるとしています。
ぼくが、前回、前々回と叙事詩と関連させて、
アトラスシリーズ(リヒター)やプラハ侵攻シリーズ(クーデルカ)など、
一連の写真からなるシリーズものを取り上げてきたのは、
まさに、そのことにダイレクトに結び付くものです。
つまり、本質的に静止的な表現である写真において、
時間の流れを生み出すにはシリーズものにするしかない。
ここにこそ、一枚の写真が叙事詩にはなりえない理由があります。
しかしながら、叙情詩ということを考えた場合はどうでしょうか、
これはまた、別なのではないでしょうか。
なぜならば、感情は瞬間にこそ宿るものだからです。
したがって、ある写真家の一枚の写真が詩的であるとされる場合、
そこには、叙情詩的な要素が強く含まれていると考えることができます。
つまり、それは、写真家が対象について「感じたこと」が写っている写真、
言い換えれば、主観的な表現がなされている写真ということになります。
アンドレ・ケルテスは、写真史上において、もっとも偉大な「詩人」です。
次回からは、ケルテスを数回に渡って取り上げる予定です<(__)>