野口里佳
≪フジヤマ#16≫
(画像削除済み)
さて、シリーズ初回は予告通り野口里佳さんの≪フジヤマ#16≫です。
この写真を見た時、ボクはとても詩的なものを感じました。
それは、一体、何だろうか。
まず、非常に簡単に整理することにしましょう。
(つまり、それは雑な分類ってことですが(* ̄艸 ̄))
第1に挙げることが出来るのは、比喩の効果です。
つまり、この写真は何にも見えると同時に何にも見えない写真なのです。
(たとえば、ある瞬間、地平線というよりは太陽表面に見えたりします。)
比喩によって、言葉(ここでは写真)の対象の意味を変えてしまうのは、
詩の役割のひとつですから、これはまさに詩的写真ということになります。
第2に挙げられるのは、この傾いた地平線です。
エドマンド・バーグは、詩人が詩を書くときは、
対象について<感じたこと>を記述することに集中する、と述べています。
ここで言われているのは、詩は主観的な立場から詠まれるということです。
言語の中でも、とりわけ詩はそれを詠う詩人と切り離せないものなのです。
さて、ここで↑の写真を思い出してみましょう。
たとえば、水平線が枠と平行して完全に水平に描かれていたら・・・
その場合、誰でも真似すれば同じ写真が撮れることになるでしょう。
つまり、それは写真と写真家が切り離されている、
いわば、客観的な写真ということになります。
(幾何学という客観的な物差しがあるので、
教えることの出来る写真=真似のできる写真とも言えます)
一方、このように傾いていた場合はどうでしょう。
それは、野口さんがたまたま、この瞬間に捉えた傾きであり、
この傾きは、野口さんという写真家の存在と切り離せないことになります。
言ってみれば、これは主観的な写真ということになるでしょう。
(こちらは、教えられない=真似のできない写真ということになります)
3つめに挙げることが出来るのはバランスです。
これは、↑の主観的という話とも繋がるのですが、
この写真は、傾いているにも関わらず、
それ自身でしっかりとバランスしているように見える。
崩れているにも関わらず、調和しているのです。
すなわち、何か外から押しつけられた規範に従っているのではなく、
それ自身の規範をそれ自身の内に持っているように見えるのです。
さて、次回は・・・どうしようかな・・・
主観的という見地から切るならば、十文字美信さん、
バランスという見地から切るならば、ケルテスということになります。
それでは、また次回<(__)>