現在、MoMA(ニューヨーク近代美術館)の3Fで、
写真展「New Photography 2011」が開催されています。(9/28~)
ここに出展されている6人の写真家の1人がDoug Rickardです。(参照↓)
Jon RafmanやMichael Wolfと同様、ストリートビューを切り取る写真家です。
こういうことをしている写真家/芸術家がいるだろうなって探して、
そして見つけた写真家が、まさに今年MoMAに出展しているってのは、
何ですか・・・まあ、時代を読む目があったなと←自画自賛(* ̄艸 ̄)
3人の中でも、特にリカードの写真には「詩」が感じられます。
そこには、写真史を彩るクラシックな傑作にも通じる風情があります。
ともあれ、彼ら3人を比較してみた時に、興味深いことがあります。
ラフマンは画面をキャプチャーしたものを作品にしているのですが、
他の2人は、カメラでモニターを実際に撮影しているのです。
この手法の違いは、ラフマンが芸術家artistであるのに対して、
ヴォルフとリカードの主戦場が写真であることにも由来しているでしょう。
昨年、リカードはストリートビューを撮影した写真を集めた
「A New American Picture」という写真集をリリースしているのですが、
これが特筆すべきなのは250部の限定生産だったことです。
※150€(=\15,000以上)だけど売り切れてる・・・←あったら買う気か?(笑)
現在、写真家の間では1つの傾向が見て取れるように思います。
それは、「モノとしての写真」を重視するという傾向です。
たとえば、同様に限定版の写真集を出版した野口里佳さんや、
プリントの美しさを追求する大和田良さんなどがその例です。
それは、なぜか。
それは、デジタル-アナログで良く提示される画質の問題ではなく、
おそらく、写真が与える効果に対するコントロールの問題なのです。
デジタル画像の場合、経験された方もいらっしゃるでしょうが、
相手のモニター上で、それがどのように映るか判断できません。
必然的に、写真家は自らの思い通りの写真の見せ方を提示するため、
デジタル時代と逆行するように、写真のモノ性を重視するようになります。
たとえば、限定版なら、一冊一冊仕上がりを確認することが出来ます。
「複製技術時代の芸術作品はアウラを喪失する」
20世紀初頭、ベンヤミンはこのように述べました。
しかしながら、モノとしての写真を重要視する今の傾向は、
「モノとしての写真はアウラを保っているのではないか?」
ということを逆説的に示唆します。
写真家のコントロールの傾向がはっきりと現れるのは、
ストリートビューの場合においては、鑑賞者の能動性です。
現代のヴァーチャルが特徴的なのは、それが双方向性を持つためです。
鑑賞者(それは、もはや鑑賞者とは呼べないかも知れませんが)は、
好きなように画像を引き出し、写真による仮想世界を自在に旅します。
それはつまり、撮影者の意図を離れるということを意味します。
(それにもまして、ストリートビューには撮影者なるものはいません)
一方、写真集になった場合には、好きな順番で見ることは出来ません。
そこには、必ず、写真家/編集者の意図が介在します。
主題の選択、あるいはフレーミング。
ストリートビューの画像を切り取るという行為の段階で、
そこには、すでにコントロールの意志が見て取れます。
それは、言い換えるならば、ヴァーチャルによって生を得た写真世界を
再び静止せしめ、そして永遠へと導こうとする道程なのです。