23卒論( ..)φメモメモ | 想像上のLand's berry

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言葉はデコヒーレンス(記事は公開後の一日程度 逐次改訂しますm(__)m)


「ホメロスとは、『イリアス』を作ることができた者あるいは者たちの、もっと正確に言えば、この詩をつくることができたに違いない者あるいは者たちの名前にほかならない」-ジャン=リュック・ナンシー/フェデリコ・フェラーリ



『作者の死』


前回、「ストリートビューの写真は美しくない」と書きました。

しかしながら、それを美しく見せるアーティストがいます。


Jon Rafman。彼は、ストリートビューから「切り取った」写真を、

ネット上で公開しているアーティストです。http://9-eyes.com/

その「作品」は現在、地元カナダの展覧会でも展示されています。


切り取られた画像には何ら手が加えられているわけではありません。

エフェクトがかけられているような作品は、元来はエラー画像でしょう。

それでも、彼の作品には明らかな「審美的」要素が見てとれます。

それはやはり、彼のアーティストとしての視線が切り取ったからです。


一方、この作品は厄介な問題を引き起こすように思えます。

つまり、この作品の「作者はだれなのか。」

かつて、デュシャンが引き起こした問題と同様の問題です。


しかし、一年時(2008年)のレポート「芸術とは何か」で、

すでに「作者の死」を提唱していたことからも分かるように、

じつのところ、ボクは、この問題にさほど興味がありません。


「作者は誰なのか」という問いそれ自体、

人間の想像の産物である「作者という概念」に引き摺られた

空虚なものに過ぎないと思えるのです。


たとえば、こういうケース。

「三脚に立てたカメラにセルフタイマを設定して自分も写真に写る。」

記念写真などでは良く見かける光景です。

この場合、作者は誰なのか?


通常の定義ではセルフタイマを設定した人が作者でしょう。

しかし、たとえば、三脚を設置した人(=構図を決めた人)と

セルフタイマを設定した人が別々だったらどうでしょう?

ましてや、撮影の瞬間は誰もカメラを覗いていないのです。


ここにいるのは、カメラをその場所に設置した人、

そして、セルフタイマを設定した人だけなのです。 

すべてを現象的に記述しようとするならば、

そこに作者なるものが存在する余地はありません。(=作者の死)


「作品全体を完全に支配するものとしての<作者なるもの>」

(という概念)をボクは認めません。ボクが認めるのは

「ある事物が及ぼす効果に一定の影響を与えた個人」だけです。


これは「影響」なので、排他的なものにはなりえません。

また同時に、これは、人間同士の間だけでの話ではありません。

たとえば、タブローの材質、筆の形状、あるいは重力・・・(cf.ポロック)

もちろん、作品に支配的な影響を及ぼした個人がいる場合もありますが、

つまるところ、あらゆる作品は「合作」であるということです。


この考え方は芸術全般を統一的に記述するのに役立ちます。

たとえば、映画などの総合芸術を考えてみれば分かることです。

多くの場合、映画には作者なるものは存在しません。

(もちろん、原作者というのは存在しますが)

そのエンディングロールは無数の個人の「合作」であることを示すのです。


翻って、デジタル的なものは、

一見すると作者が全てを支配しているように見えます。

たとえば言語(=デジタル的なもの)による芸術である「詩」


しかしながら、あらゆる「詩」は、

それが朗読されるか、文字にされない限り、

作品としては立ち現われてきません。

音として、字としての「詩」を、完全に支配するのは不可能です。

芸術とは、まず何よりもリプレゼンテーション(表現/再現)なのです。


また、直接的なものだけでなく、間接的なものも「影響」と呼ばれます。

つまり、頭の中の詩も全きオリジナルな詩ではありえないわけです。

(なにより、言語というのは教えられなければ覚えられません)


間接的な影響も含めて、合作とみなす。

ということは、すなわち、ジョット以降のあらゆる西洋絵画を、

(多かれ少なかれ)ジョットとの合作と見ることに他なりません。


これは、問題をはらんだ考え方のように見えるかも知れませんが、

また同時に、多くのことを解消できる考え方でもあります。


たとえば、贋作の問題を考えてみましょう。

≪エマオの食事≫はフェルメールの作としては偽物ですが、

ファン・メーヘレンの作としては本物だと言われます。


ここでも、作者問題は厄介な問題を引き起こすように思われます。

すなわち、本物とは一体なんなのか?


しかし、あれは両者(+a)の合作と考えれば良いのです。

そうすれば、本物と偽物の区別などは生じようもありません。

作品としての良しあしは、それとは全く別の次元にあります。

(≪エマオの食事≫は、ハッキリ言って、〇〇みたいなもんです。)


オリジナリティというものが作品の評価基準のひとつになっていることも、

これで理解できます。すなわち、作品上に現れる幾多の影響を従え、

どれだけ孤立したものを築き上げることができるか。(=オリジナリティ)

これは、作品がそもそも合作と見なされている何よりの証です。


ボクはデジタル写真はメーカーさんとの合作だとだと思っています。

彼らが作った色/画像処理etc・・・多くの影響が画面上に現れます。

画像エンジンを通さずrawファイルで保存し、自らの好む色で現像する。

これはオリジナリティを主張する/画面を服従させようとする行為、

つまり、これがボクのものだと主張する行為に他なりません(* ̄艸 ̄)

しかしながら、画面上からあらゆる影響を排除するのは不可能です。


また同時に、それの、どれくらいが、誰/何の影響を受けているか

を判断することは出来ません。(これは誰にも分からないのです)

この分離不可能性こそが、厄介な問題を引き起こす要因です。


もともと、分離不可能なのだから、分離して考えようとすれば、

(すなわち、ある作品をある作者単独の作品として記述しようとすれば)

必ず、どこかに無理が生じるのです。(=作者問題)


何も分離せず、ありのままに提示すること。

すなわち映画のエンディングロールのように、

誰が何をしたかをありのままに提示すること

それがボクの考える作者記述の在り方です。


つまり、冒頭に掲げたJon Rafmanの「作品」は、

「Google street view の画像をJon Rafmanが切り取ったもの」です(笑)

↑たったこれだけが言いたいがために、こんなに長く書いた人(* ̄艸 ̄)


もちろん、実際には、車を運転した人/ストリートビューを開発した人

それに影響を与えた人、それぞれの名を入れる必要があるでしょう。

さらに言えば、そのリストは人以外も含めて無限に広がっていきます。

「作者という概念」は、実際には不可能なリストの制作を

回避するため"だけ"の便宜的な概念に過ぎないのです。


つまるところ、「作者」は「作者リスト」をリプレゼント(代表)するのです。