『鉱石としての写真』
「ナショナル・ジオグラフィック」という雑誌が好きだ。
その特色は、掲載された数々の美しい写真にある。
「50 greatest photographs of national geographic」というiPadアプリには、
かつて掲載された50の素晴らしい写真と、その背景が収録されている。
iPad2を買ってすぐに購入したアプリだったが、見返してみて驚いた。
最近、卒論のためにGoogleのストリートビューばかり見ていた。
ここには、美はない。そんな気がしていた。
それは、むしろ、今のボクには相応しい気がした。
翻って、ナショナル・ジオグラフィックの写真は驚くほど美しかった。
たとえ、同じ場所を写していたとしても、解像度の問題を超えて、
ストリートビューの「パノラマ写真」とは決定的な違いを感じる。
それは、なぜだろう。
やはり「撮影者」の問題だと思うのだ。
高さを固定された全方向カメラによって、世界が均質化されていく。
ストリートビューは、すべてが均質化された全天球型のパノラマだ。
そこに作者(撮影者)はいない。
真/善/美と言うように、古来、美は普遍的なものとみなされてきた。
であるならば、均質化される方向性は美への方向性である筈だ。
しかしながら、少なくとも写真においてはそれは当てはまらない。
写真において、美は、むしろ掘り起こされるものである。
かつて、ロマン主義者たちは、天才のみがそれを行い得ると考えた。
「普通人は天才の眼を借りてイデアを認識する」-ショーペンハウアー
このナイーヴなモノの見方が的を射ているかは置いておくとして、
これを、写真に喩えて、次のように言い換えてみよう。
つまり、「カメラは撮影者の眼を借りて美を認識する」のだ。
たとえば、ダイヤが炭素の結晶であるように、
美は、ポテンシャリティの海として、あまねく存在する。
あたかも鉱石から鉱物を抽出するように、
写真家は、風景(パノラマ)から美を抽出(フレーミング)し、
そして、それを感光材の上に結晶させる。
写真とは、写真家が、美を瞬時に結晶させる行為に他ならないのだ。
しかし、光が無ければ何が残る?