22卒論( ..)φメモメモ | 想像上のLand's berry

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言葉はデコヒーレンス(記事は公開後の一日程度 逐次改訂しますm(__)m)


 ジョン・バージャーが鋭く指摘するように、伝統的な方法に則った写真家の本質的なメッセージは、いつも変わらない―つまり、「これが目に映ったことを記録する価値があるとわたしは判断した」ということなのだ。ーウィリアム・J・ミッチェルー



『鉱石としての写真』


「ナショナル・ジオグラフィック」という雑誌が好きだ。

その特色は、掲載された数々の美しい写真にある。


「50 greatest photographs of national geographic」というiPadアプリには、

かつて掲載された50の素晴らしい写真と、その背景が収録されている。

iPad2を買ってすぐに購入したアプリだったが、見返してみて驚いた。


最近、卒論のためにGoogleのストリートビューばかり見ていた。

ここには、美はない。そんな気がしていた。

それは、むしろ、今のボクには相応しい気がした。


翻って、ナショナル・ジオグラフィックの写真は驚くほど美しかった。

たとえ、同じ場所を写していたとしても、解像度の問題を超えて、

ストリートビューの「パノラマ写真」とは決定的な違いを感じる。


それは、なぜだろう。

やはり「撮影者」の問題だと思うのだ。


高さを固定された全方向カメラによって、世界が均質化されていく。

ストリートビューは、すべてが均質化された全天球型のパノラマだ。

そこに作者(撮影者)はいない。


真/善/美と言うように、古来、美は普遍的なものとみなされてきた。

であるならば、均質化される方向性は美への方向性である筈だ。

しかしながら、少なくとも写真においてはそれは当てはまらない。


写真において、美は、むしろ掘り起こされるものである。


かつて、ロマン主義者たちは、天才のみがそれを行い得ると考えた。

「普通人は天才の眼を借りてイデアを認識する」-ショーペンハウアー

このナイーヴなモノの見方が的を射ているかは置いておくとして、

これを、写真に喩えて、次のように言い換えてみよう。

つまり、「カメラは撮影者の眼を借りて美を認識する」のだ。


たとえば、ダイヤが炭素の結晶であるように、

美は、ポテンシャリティの海として、あまねく存在する。

あたかも鉱石から鉱物を抽出するように、

写真家は、風景(パノラマ)から美を抽出(フレーミング)し、

そして、それを感光材の上に結晶させる。


写真とは、写真家が、美を瞬時に結晶させる行為に他ならないのだ。


しかし、光が無ければ何が残る?