20卒論( ..)φメモメモ | 想像上のLand's berry

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言葉はデコヒーレンス(記事は公開後の一日程度 逐次改訂しますm(__)m)


ちと、寄り道・・・

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『文脈に依存するということ』


古来、写真はインデックスによる記号であった。

感光材の上に対象を発した/経由した光が刻まれる。

それは足跡のように、対象を痕跡付けるものだった。


デジタル時代に入り、痕跡を遡及する可能性は無くなった。

デジタルカメラの画像にはネガ(オリジナル)は存在しない。

すべては電気信号からデジタル情報へと変換される。

最初からコピーとして制作される「デジタル写真」において

オリジナルとコピーの違いは端から存在しないのだ。


しかし果たして、写真を受容する多くの人々にとって、

ネガを検証する可能性など最初から与えられていただろうか?


人々は遥か以前から、デジタル時代と同様に、

広告写真と報道写真とを受容していたのだ。

かたや虚構として、かたや真実として。


以下は、科学/哲学的見地を離れ、文化的側面から見た

写真の真実性に対する考察である。



写真の真実性(現実に対象を持つかどうか)は、

それが提出された状況と、提出された内容によって検証される。

あたかも、言葉がそうであるように。


たとえば、ぼくが○○だと言った場合、

ある状況では冗談と取られ

また、ある状況では真実を述べていると取られるだろう。

その状況がシリアスであればあるほど、

その発言の真実性は高まるだろうと予測される。


しかし、「ぼくは宇宙人だ」と言った場合にはどうだろうか。

どんなにシリアスな状況でも、そう簡単には信じてもらえないだろう。

写真の受容もこれと同じことなのだ。


その説得力は、それが提出された状況と、内容によって左右される。

たとえば、街中にUFO出現を謳ったポスター広告が登場するとしよう。

大抵の人は、それを現実の出来事だとは見なさない。


一方、売店で売られている新聞のトップ記事に載っていたらどうか。

日々、流されるニュースに付随されている「見慣れた写真」と違い、

これは、ある程度は信じられるだろうが、まだ半信半疑かも知れない。

しかし、前日から、各TV局で報道特番が組まれていたらどうだろう。

この場合は、もはや既成事実として、この写真は受容される筈だ。


一枚の写真が真実と取られるかどうかは、文脈に依存する。


翻って、写真それ自体は自己にしか言及しない。つまるところ、

写真とは、ある時間の感光面の光の状態を蓄積したものに過ぎない。


たとえば、ぼくが宇宙人であることを、どれだけ精緻に論じるとしても、

そこに参照されるべき証拠を提出しなければ、何の意味ももたないように。


かくして、一枚の写真とはある種の論文なのだ。

それは、どこまでも強固に対象の存在を、

(つまり、ぼくが宇宙人であることを)主張するだろう。

しかし、レファレンスがない限り、それはただの空論なのだ。


現実の対象物と見比べてみて、初めてそこにレファレンスが生じる。

こうして、記号としての写真はイコンとしての側面を帯び始める。


どれほど鮮明にUFOが写っているのだとしても、

あるいは、どれだけ、精密な画像をCGで構築したとしても、

それが、どれほど実際の写真と見分けがつかないものであっても、

その一枚だけで、何かを証すというのは不可能に近いのである。