ちと、寄り道・・・

『文脈に依存するということ』
古来、写真はインデックスによる記号であった。
感光材の上に対象を発した/経由した光が刻まれる。
それは足跡のように、対象を痕跡付けるものだった。
デジタル時代に入り、痕跡を遡及する可能性は無くなった。
デジタルカメラの画像にはネガ(オリジナル)は存在しない。
すべては電気信号からデジタル情報へと変換される。
最初からコピーとして制作される「デジタル写真」において
オリジナルとコピーの違いは端から存在しないのだ。
しかし果たして、写真を受容する多くの人々にとって、
ネガを検証する可能性など最初から与えられていただろうか?
人々は遥か以前から、デジタル時代と同様に、
広告写真と報道写真とを受容していたのだ。
かたや虚構として、かたや真実として。
以下は、科学/哲学的見地を離れ、文化的側面から見た
写真の真実性に対する考察である。
写真の真実性(現実に対象を持つかどうか)は、
それが提出された状況と、提出された内容によって検証される。
あたかも、言葉がそうであるように。
たとえば、ぼくが○○だと言った場合、
ある状況では冗談と取られ、
また、ある状況では真実を述べていると取られるだろう。
その状況がシリアスであればあるほど、
その発言の真実性は高まるだろうと予測される。
しかし、「ぼくは宇宙人だ」と言った場合にはどうだろうか。
どんなにシリアスな状況でも、そう簡単には信じてもらえないだろう。
写真の受容もこれと同じことなのだ。
その説得力は、それが提出された状況と、内容によって左右される。
たとえば、街中にUFO出現を謳ったポスター広告が登場するとしよう。
大抵の人は、それを現実の出来事だとは見なさない。
一方、売店で売られている新聞のトップ記事に載っていたらどうか。
日々、流されるニュースに付随されている「見慣れた写真」と違い、
これは、ある程度は信じられるだろうが、まだ半信半疑かも知れない。
しかし、前日から、各TV局で報道特番が組まれていたらどうだろう。
この場合は、もはや既成事実として、この写真は受容される筈だ。
一枚の写真が真実と取られるかどうかは、文脈に依存する。
翻って、写真それ自体は自己にしか言及しない。つまるところ、
写真とは、ある時間の感光面の光の状態を蓄積したものに過ぎない。
たとえば、ぼくが宇宙人であることを、どれだけ精緻に論じるとしても、
そこに参照されるべき証拠を提出しなければ、何の意味ももたないように。
かくして、一枚の写真とはある種の論文なのだ。
それは、どこまでも強固に対象の存在を、
(つまり、ぼくが宇宙人であることを)主張するだろう。
しかし、レファレンスがない限り、それはただの空論なのだ。
現実の対象物と見比べてみて、初めてそこにレファレンスが生じる。
こうして、記号としての写真はイコンとしての側面を帯び始める。
どれほど鮮明にUFOが写っているのだとしても、
あるいは、どれだけ、精密な画像をCGで構築したとしても、
それが、どれほど実際の写真と見分けがつかないものであっても、
その一枚だけで、何かを証すというのは不可能に近いのである。