8/31に卒論の中間報告&飲み会がありまして、
そのあと、少し体調を崩してブログをおサボりしてました<(__)>
普段と違うことをすると体調を崩すっていう・・・おなじみの(* ̄艸 ̄)
と言いつつ、お酒は一滴も飲まなかったんですけどね←あまのじゃく(笑)
そうそう・・・それで(ようやく?)卒論のテーマが決まりました。
題して『Googleストリートビューに見る写真とヴァーチャルの関係(仮)』
(あれ?Googleマップをテーマにするって言ったことあったかな?)
まあ、ストリートビューに特化するか、マップ&アースを絡めるか、
あるいは、デジタルという概念にどこまで突っ込むか・・・
あるいは、合同演習で扱った『写真の記号性』に触れるべきかどうか・・・
などなど、ディテールはまだまだ詰めなければなりませんが、
まあ、やるべきことが決まったので、気持ちはスッキリしましたね♪
と、言うわけで、卒論( ..)φメモメモ15回です<(__)>

「この段階では、ヴァーチャルなものがわれわれの代わりに思考する。思考の主体も、行為の主体も、もはや必要ではない。すべてはテクノロジーという媒体をつうじて生じることになる。」ジャン・ボードリヤール
『ヴァーチャルなものの自律性と対話性。』
「木が種子の中にヴァーチャルに存在する。」
種子が木になるのは、種子自身の中にプログラムとして仕組まれている。
これは、ヴァーチャルなものの自律性を表しています。
一方、「彫像が大理石の塊の中にヴァーチャルに存在する。」
彫刻家の問題意識が大理石の塊に投げ掛けられ、
大理石の塊から彫刻家に問題提起として投げ返される。
彫刻家は大理石の塊と「対話」しながら鏨を打ち進みます。
大理石の塊が彫像としてアクチュアル化されるのは、
まさに、ヴァーチャルなものの対話性によるのです。
ここにおいて見て取れるのは、ヴァーチャルなものの二つの極です。
これを存在論と認識論という側面から分析することも出来そうですが、
ともあれ、ボクが指摘したいのは、デジタル時代において、
ヴァーチャルなものの自律性と対話性が融合されたということなのです。
VRはユーザーとリアルタイムに対話(操作に反応)しながら、
あらかじめ自身に仕組まれたプログラムによって、
アクチュアルなもの(答え)をユーザーに提示します。
このようなヴァーチャルなものの自律性と対話性の融合は、
我々がヴァーチャルなものに直接アクセスすることを可能にしました。
いまや、ヴァーチャルなものは過去に属するものではなく、
目の前のディスプレイ(窓)の先に誰もが感じ取れるものなのです。
これこそが、我々の生きるデジタル時代において、
「ヴァーチャル」という言葉が重要性を持つようになった
もっとも決定的な要素なのではないでしょうか。
さて、そのようなデジタル時代において、
ヴァーチャルなものと写真とは、
一体、どのような関わり方をするのでしょうか。
それではまた次回<(__)>