ヴァーチャル世界論4 | 想像上のLand's berry

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言葉はデコヒーレンス(記事は公開後の一日程度 逐次改訂しますm(__)m)

 
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 さて、最後に、ヴァーチャルという言葉をもう少し見ていくことにしましょう。UNESCOの情報科学部門ディレクターであるフィリップ・ケオーによれば、

フィリップ・ケオー(1952-)Philippe Queau : フランスの情報工学者
 “ヴァーチャル”の原義は、「力」「エネルギー」などを表すラテン語の「virtus」である。これは、あるものをそうあらしめる潜在能力という意味だ。たとえば、樫の木はドングリのなかにヴァーチャルに存在し、彫像は大理石の塊のなかにヴァーチャルに存在するということになる。
フィリップ・ケオー著/嶋崎正樹  『ヴァーチャルという思想』NTT出版、1997p.ⅱ(監修者序文)
 
 つまり、ヴァーチャルという言葉には潜在的という意味が含まれています。引用した部分はコンパクトに纏められていた監修者序文なのですが、たとえば、樫の木はドングリのなかにヴァーチャルに存在し、彫像は大理石の塊のなかにヴァーチャルに存在するということになります。ちなみに、この例はケオーによる本文にも登場してきます。ケオーはまた、
 
 <ヴァーチャル世界>は、<潜在的な>世界でもある。
フィリップ・ケオー前掲書 p.49
 
 とも言っていますが、つまり、この意味においては、まさにヴァーチャルなもの(潜在的なもの)こそが実在化する可能性を秘めていることになります。
 
 ここで先ほどの例を思い起こしてみて下さい。VRの場合は完璧なシミュレーションは現実そのものと化してしまうという点において、まさに潜在的なものであると言えます。また、そこまで極端でなくても良いのです。たとえば、VRで体験したことによって現実世界に対する認識が変わり、認識が変わったことで現実世界の行動に影響する、つまり、仮想世界の出来事が現実世界に影響するという点で、VRは潜在的であるとも言えるでしょう。
 
 サイバースペースの場合は、チュニジアのジャスミン革命のように、サイバースペースの現実がまずそこにあり、それが現実世界の現実を呑み込んだという点で、これはまさに潜在的なものであったのです。また、サイバースペースの仮想人格であった筈の初音ミクが現実世界の事象となっている点において、初音ミクというバーチャルアイドルは潜在的な存在であったと言えるでしょう。
 
 これらを踏まえて言えること、それはつまり、ヴァーチャルな世界とは、可能な現実世界へと扉を開いている世界であり、それはむしろ、現実世界そのものの可能性を示しているのではないか、ということです。もちろん、ヴァーチャル世界の現実がそっくりそのまま現実世界の現実になるということは、実際にはありえないでしょう。しかし、そこには現実世界の未来の種が含まれています。現実世界の新たな捉え方/見方を提供するという点において、そこには一種の芸術体験があると考えることができるのです。たとえば、小谷元彦の≪インフェルノ≫を考えてみれば分かるように、VRはまさに、一種のインスタレーションそのものだと考えられます。
 
 木彫や樹脂の彫刻のみならず、<映像彫刻>ともいうべき作品をつくる小谷元彦さん。出品作品の《インフェルノ》はハイビジョン映像8面で構成される圧倒的な体感型インスタレーションです。
(2011/6/14閲覧)
 (小谷元彦展の感想→http://blogs.yahoo.co.jp/flowinvain/28172478.html

 VRを体験することで、ぼくらの現実世界に対する認識が変わるのです。また、サイバースペースにおいては、著者の太田氏自身がネットによる展示の可能性に言及していますし、テキストの第一章(太田氏による)二節p.40ではウェブのデータベースとしてのミュージアム、あるいはヴァーチャルミュージアムは「マルローの空想美術館」の進化の型と考えることも出来ると述べています。
 
空想美術館(壁のない美術館):写真複製により古今東西の芸術作品を一堂に集めた空想の美術館(テキストp.38参照)
 
 しかし、サイバースペースで“ディスプレイ”されているのは、美術館に展示されている芸術作品の画像だけではありません。ぼくにはむしろ、サイバースペースそのものが現実世界の可能性を展示したひとつの美術館であるように思えるのです。むしろ、こうも言えるかも知れません。現実世界の奥底で眠る未だ形をなしていないものが、サイバースペースではディスプレイ化されている。そのことでぼくらは現実世界の可能性に気付く。つまり、ヴァーチャル世界は現実世界そのものの可能性を作品として展示するのであり、ぼくらは、そこに繋がり、そこで何かを得て、失って、現実世界へと戻っていくことで、ある意味では、この作品に参加しているのです。この意味において、ヴァーチャル世界に没入するとは、単なる虚構やコピーの世界に没入することではなく、むしろ現実世界の未来の可能性を現した作品に参加することに他ならない、という結論を持って、この反論を終えたいと思います。