初音ミクを反論に用いた(発表の)レポートが返ってきました(* ̄艸 ̄)
テキストに対する反論という形になっているので、
テキストが手許にないと分かり難いと思いますし、
特に↓の1~2章は本格的な反論に入る前の手続きになっているので、
あまり面白くはないと思います。(1~2章を飛ばしても意味は通じます)
(それでも、もし)ご興味があればどうぞ<(__)>
序章
テキスト=太田喬夫/三木順子 編『芸術展示の現象学』晃洋書房、2007(序章 芸術展示とは何か)
反論箇所はテキストp.14(16行~最終行)の
序章の著者=太田喬夫氏
ネットによるシミュラクルな世界、あるいは「テクノ画像」の世界に、われわれが関わるとき、そうした世界が、どのようにして成り立っているかを、その仕組みを物理的に知っておく必要がある。(13)そのことによってこの世界が、一つのコピー、ひとつの虚構であることを意識化し、それに容易に没入し続ける弊害から逃れることができよう。
という文章です。この文章には注(13)がついており、出典としてボードリヤールの『シミュラークルとシミュレーション』、フルッサーの『テクノコードの誕生-コミュニケーション学序説』、同じフルッサーの『写真の哲学のために - テクノロジーとヴィジュアルカルチャー』が挙げられています。この内、ボードリヤールの著書にはシミュラークルという言葉が、フルッサーの著書にはテクノ画像という言葉が登場します。
ボードリヤール(1929-2007)Jean Baudrillard :フランスの社会学者
フルッサー(1920-1991)Vilem Flusser:チェコの哲学者
シミュラークル:(模造の意)現実の中に対応物をもたない記号。『広辞苑六版』
著者の意図を理解するために、はじめにこの文章を解体してみましょう。もっとも問題になるのは、「この世界」という言葉が何を指すかということです。実は、この言葉はあとで問題になるのですが、続いて、「この世界が一つのコピー、ひとつの虚構である」と述べられていることから、普通に読むのならば、この世界とはネットによるシミュラークルな世界、あるいは、テクノ画像の世界を指すと考えることが出来ます。つまり、ネットによるシミュラークルな世界、あるいは、テクノ画像の世界が、一つのコピー、ひとつの虚構であると著者の太田氏が見なしていることになります。したがって、この文章は、ネットによるシミュラークルな世界やテクノ画像の世界が、一つのコピー、ひとつの虚構であると意識することによって、その世界に容易に没入し続ける弊害から逃れることができるという意味を持つと見なすことができるのです。
逃れる:(危険な場所や不利な状況から)離れ遠ざかる。にげ去る。まぬかれる。『広辞苑六版』
さて、ここで少し考えなければなりません。広辞苑によれば、逃れるとは危険な状況や不利な状況から離れ遠ざかることを意味しますから、没入し続ける弊害から逃れることが出来るためにはつまり、逃れる場所、あるいは別の状況がなければならないということになります。しかも、ここでは世界という言葉が意図的に使われていることから、そこから逃れるためにはこれらの世界を覆う上部構造としての世界、あるいはこれらの世界とは別個に立っている世界が必要になります。それは一体なんでしょうか。ヒントは反論箇所前半部の「仕組みを物理的に知っておく必要がある」という文にあります。この文から、ネットによるシミュラークルな世界やテクノ画像の世界に没入し続ける弊害から逃れさせるのは物理的な知識であると太田氏が考えていることが分かります。すなわち、別の世界とは物理に属する世界、つまり現実世界を指すと考えられます。それらを踏まえた上で反論を始めましょう。
反論者はまず、筆者による用語の使用法が誤っていることを明らかにし、さらにそれを踏まえた上でなお筆者の意図を汲みとり、それに対し概念の点から反論を試みます。
1章<シミュラークル>
シミュラークルについて、ボードリヤールはこんなことを言っています。
現実は、単に複製可能なものではなく、いつでもすでに複製されてしまったもの、つまり、ハイパー現実なのだ。(中略)現在では、政治的、社会的、歴史的、経済的等々の日常的現実のすべてが、ハイパーリアリズムのシミュラークルの領域にすでに組みこまれてしまった。
J・ボードリヤール『象徴交換と死』今村仁史/塚原史 訳、筑摩書房、1982、 p.154
ハイパーリアリズム:ボードリヤールによれば、ハイパーリアルとは「現実の過剰」を意味し、産業やメディアがシミュレーションによって生み出す過剰なモノや記号からなる世界を指している。『岩波 哲学・思想事典』
シミュレーション:物理的・生態的・社会的等のシステムの挙動を、これとほぼ同じ法則に支配される他のシステムまたはコンピューターによって、模擬すること。『広辞苑六版』
つまり、ボードリヤールの考えでは、そもそも、日常的現実それ自体がすでにシミュラークルの領域に組み込まれているのです。したがって、反論箇所の文章は<シミュラークルなネット世界>と<シミュラークルでない現実世界>という対立構造にはなり得ず、その図式は<シミュラークルなネット世界>と<シミュラークルな現実世界>でしかあり得ないということになります。
太田氏は「この世界が、一つのコピー、ひとつの虚構であることを意識化し、それに容易に没入し続ける弊害から逃れることができる」と述べていますが、そうであるためには、二つの世界の内、<シミュラークルなネット世界>がコピー(あるいは虚構)で、<シミュラークルな現実世界>がそうでないもの(オリジナル、あるいは真実)でなければなりません。また、「この世界が、一つのコピー」ということは、コピーが氾濫する世界ではなく、<シミュラークルなネット世界>そのものが<シミュラークルな現実世界>というオリジナルに対するコピーであるということを意味します。しかし、岩波哲学・思想事典によれば、シミュラークルとは
現在の社会学的文明批評の用法では、シミュラークルは記号とほぼ同義である。ただし、記号は現実の指示対象と結合しているのに対してシミュラークルはそれに対応する実在をもたない。
ものです。つまり、シミュラークルは、オリジナル(実在) に対するコピー(複製)という性格を持っていません。したがって「シミュラークルなネット世界」は「シミュラークルな現実世界」というオリジナルに対するコピーではありえないのです。シミュラークルな世界である限りは、どちらもがコピーの世界であると言えます。
コピー:①写し。複写。②模倣。模造品③下書き。手本。④広告文。宣伝文句。『広辞苑六版』
そうであるとするならば、問題は虚構という一語に収斂されるでしょう。しかし、ボードリヤールは次のように述べています。
ところがシミュレーションは、≪真≫と≪偽≫、≪実在≫と≪空間≫の差異をなしくずしにしてしまう。≪真≫の病気の兆候をつくってしまうのだから仮病を使う人は病気なのか、病気ではないのか。客観的に彼を病人とも病人でないとも位置づけられない。
ボードリヤール『シミュラークルとシミュレーション』竹原あき子 訳、法政大学出版局、1984、P.4
つまり、シミュレーションが作り出すハイパー現実(シミュラークルな世界)では≪真≫と≪偽≫は分けられるものではないのです。<シミュラークルなネット世界>と<シミュラークルな現実世界>のどちらもがシミュラークルな世界であるので、どちらかが真実であり、どちらかが虚構であるという概念は適用できないということになります。
虚構:事実ではないこと事実らしく仕組むこと。また、その仕組んだもの。作りごと。フィクション。『広辞苑六版』
こう見ていくと、コピーという概念でも、虚構という概念でも、この二つの世界を切り分けることができません。つまり、「この世界が、一つのコピー、ひとつの虚構であることを意識化し、それに容易に没入し続ける弊害から逃れることができよう」という文が機能しないことを意味します。したがって、ボードリヤールに従うのならば、この文章は不可能になってしまうのではないか、というのが第一の反論になります。
2章<テクノ画像>
第2章ではテクノ画像という言葉に関して考察します。どうも、この部分にはミスリードがあるようです。反論箇所の節のタイトルは「デジタル時代、ウェヴ・ネット社会における展示」となっていて、そこで触れられていることも一貫してデジタルやネットの話であり、このテクノ画像という言葉も、そうした物を指すように思ってしまうのです。しかし、出典として挙げられているフルッサーの文献におけるテクノ画像はそういうものではありません。フルッサーによれば、テクノ画像とは、
装置によって作り出される画像
『写真の哲学のために』p.117
のことを指します。例として写真やポスター、スープ缶に貼られた印刷などが挙げられており、デジタル画像やCGのことを指す言葉ではありません。もちろん、デジタル画像やCGも装置によって作り出される画像なので、広義の意味ではそれらも含まれるかも知れません。しかし、フルッサーを引用して<テクノ画像の世界>という言葉を使った時に、それがあたかも内部を歩けるようなCGによるヴァーチャル世界を指すと考えるのは不可能です。したがって、テクノ画像という言葉を使う限り、著者が問題にしているのはCGによるヴァーチャルな世界のことではないことになります。
モノそのものとしてのテクノ画像は「平面」なので、しずみ入ることは出来ません。つまり、<テクノ画像の世界>とは、モノとしてのテクノ画像の集まりを表す言葉に過ぎなくなるのです。広辞苑によれば、没入とは「①しずみ入ること。おちいること。②没頭すること。」の意味がありますが、しずみ入ることが出来ないのならば、没入という言葉は没頭という意味でしか取れません。であるとするならば、<テクノ画像の世界>に没頭するということが、たとえば切手集めに没頭するといったような、趣味の世界に没頭することとの区別がなくなります。太田氏本人が、まさにこの序章で、「人間は元々、モノを集める趣味ないし欲求を持っている。」(テキストp.6)と述べているので、第二章の結論としては趣味の世界に没頭することを、他人にとやかく言われる筋合いはない、ということになってしまいます。
没頭:何もかも忘れて、ある物事に熱中すること。その事に精神をつぎこむこと。はまりこむこと。『広辞苑六版』
これは何だか著者の意図を誤解したような奇妙な反論のように思えます。しかし、なぜそうなってしまうかと言えば、著者が用語を間違って(誤解して)使用しているため、このようなおかしな結論(おそらくは著者が意図しなかったであろう結論)が導きだされてしまうためなのです。