これから書くことは、完全にぼく独自の考えなので、え~・・・(あまり真に受けず)「ふ~ん・・・」程度にお聞きください<(__)>
『詩について』
~差異の体系と命名に関するetc.~
言語は「語についていったんなされた連想が永久的であるならば、どの特定の単語がある観念を連想させるかは重要ではない」程度に応じて、散文的であります。言語は、それが重要である程度に応じて、詩的であります。
-W.H.オーデン-
日常的言語使用においては、言葉の意味は自ずと明らかであり、それを、わざわざ疑ったりしません。それは語り手と受け手が共通のルール(言語体系)に基づいて会話をしているからです。だから、例えば同じ母国語で話す相手であっても、ジェネレーションや所属する社会が違ったりすると、相手の言った言葉が理解できないことがままあります。それは、(その言葉の使い方に関する)お互いのルールが一致していないからです。つまり、言葉(単語)を習得するとは、その言葉をルールの内に位置づけることに他なりません。
言語には、そのような日常的(散文的)な言語表現の他に詩的な言語表現があります。そのふたつの間には境界線を引くことはできず、その中間点では両者が融け合っています。ふたつの言語表現を厳密に区別することは難しいでしょう。しかし、オーデンが言うように、「より日常的(散文的)な言語表現」と「より詩的な言語表現」という2つの極は見て取れるのです。それでは、「より詩的な表現」とは一体なんでしょうか?
詩にはいくつかの側面があります。ひとつは、言葉の内容(ボトルの中身)よりも言葉そのもの(ボトルそのもの)を重視するという点です。通常の言語表現においては伝わる内容が同じであれば、どんな表現を用いても構わない筈です。しかし、詩はそうではありません。詩においては、それはその表現でしかあり得ないのです。これは、つまり言語表現の持つ意味そのものが、言葉の内容だけでなく、言葉の表面(響き、字面)にも左右されるということを示唆します。日常的言語表現が差異の体系に含まれ、言葉の意味するもの(シニフィアン)と意味されるもの(シニフィエ)が恣意的にしか結びついていないのに対し、詩の領域ではそれらは強固に結びついています。何によってか。それは語り手(詩人)の存在によっているのです。詩人にとっては、それはその表現でしかありえません。ここでは言葉の意味するもの(シニフィアン)と意味されるもの(シニフィエ)の強固な結びつきが見て取れます。ゆえに詩においては常に語り手の存在が問題になります。
詩における韻や律(などの規則)もこの領域に含まれると言って良いでしょう。詩には(必ずしも)韻が必要という訳ではありませんが、リズムは必須です。これは、詩が(元来)読むものである以前に詠むもの(詠うもの)であるところからも来ているでしょう。我々ヒトは文字を書く以前から言葉を使ってきました。つまるところ、言語は元々「音」だったのです。リズムが必須だと言っても、それは(必ずしも)一定のリズムや(5・7・5のような)定まったリズムを意味するものではありません。しかしながら、詩全体を通して感じられる、あるまとまったひとつのリズム、あるまとまったひとつの調子、そういったものが詩には不可欠なのです。もちろん、変調することもありえますが、それさえも含めて、全体として、あるまとまった統一的なリズム/調子を詩は備えていなければなりません。
もうひとつの側面は比喩です。比喩は元来(通常)の言語表現では結びついていなかった二つ以上のものを結びつけることによって、新たな意味をそこに付随させます。つまるところ、比喩とは、言語領域における「意味」という、かの巨人を再構成するためのツールなのです。ある言葉に別の意味を付け加えるという点で、また、世界の新たな認識/見方を提供するという点において、比喩は(まさしく)詩的であると言えましょう。
詩における描写性に関しては、(美学書庫の)詩画比較論の記事(http://blogs.yahoo.co.jp/flowinvain/28078996.html)でレッシングの考えを俯瞰しました。あの記事で述べたことには、ぼくも大筋で同意するのですが、やはり問題になるのは本質的に詩の対象は「静的(並列的)」ではなく「動的(継起的)」であるということです。しかし、これは木のように静的なものを詩が対象にしてはいけないという意味ではありません。「詩は本質的に時間に属するから、何かを描写する場合も時間に則って行わなければならない」ということです。たとえば、
「教室には、人が出入りするための扉がある。その扉の向かい側には、半開きの窓がある。その窓の下に誰々が座っている。」
これは、静的(並列的)な表現です。これを動的(継起的)にするためには、視点自体を動かしてやればよいのです。
「扉を開けて教室に入る。正面の窓から吹いてくる風を頬で感じながら、窓の下に目をやると、誰々の姿が陽射しを浴びて輝いていた。」
これは別に詩ではありませんが(笑)、つまるところ、説明と物語の違いです。詩は鑑賞者に状況を理解させるだけでなく、鑑賞者をその世界に取り込まなければなりません。詩は本質的に時間に属するのですから、時間の流れに則ることで鑑賞者を取り込み、詩におけるイリュージョンの効果を生みだすということになります。(反対に絵画は空間に属するので、空間の奥行きを表すことで鑑賞者を取り込み、イリュージョンの効果を生む。)
また、詩画比較論ではバークの考え方も俯瞰しました。つまり、日常的言語表現に比べて、詩はより感情/情念で訴えかける傾向が強いということです。これは、特に近代以降の詩を考える上では重要な指摘だと思います。つまるところ、日常的言語は対象の方に寄り添っているのに対し、詩は対象と主観(詩人)の中間に位置しているのです。(これは比喩も同じ、対象と対象を結びつける線、そしてそれと詩人を結ぶ線の交点に詩は位置する)つまり、日常的言語においてはそれを誰が言ったかは問題にならない場合もありえますが、詩の場合は常に語り手の存在が問題になるということです。言い換えるのならば、日常的言語が対象を経由して語り手と受け手を繋ぐ(コミュニケーションする)のに対し、詩は根本的に独り言であるってことになります。その独り言の主観的世界を「追体験」することで、はじめて語り手と受け手が結び付くのです。
これまで見てきたように、詩には「言葉そのもの(響きなど)を重視する」「比喩的」「動的(継起的/時間的)」「感情を重視する」といったいくつかの傾向が見てとれます。あらゆる詩がこれら全ての要素を満たさなければならないというわけではありません。しかし、これらの要素をひとつも満たしていなければ、それはやはり詩とは呼びづらいでしょう。(見落としている要素もあるかも知れませんが)これらいくつかの要素を基準にすれば、「より日常的な言語表現」と「より詩的な言語表現」という2つの極に言語表現を分けられるように思います。
注:これら全てを満たしているから「良い詩」、ひとつだけ満たしているから「そこそこの詩」というような基準ではありません。「くだらない詩」もありますし、「美しい日常的表現」もありえるのです。(例:E=mc2)←こりゃ日常的表現じゃないかも(* ̄艸 ̄)
詩には、多くのことができます-喜ばせ、悲しませ、心をかき乱し、ひまをまぎらせ、教えることができます。詩は、情緒の考えられるあらゆる度合いを表現できるでしょう、考えられるあらゆる種頼のできごとを描けるでしょう。しかし、あらゆる詩がなさねばならぬことが、ただひとつあります。その存在と生起をほめたたえることのできるすべてのものを、詩はほめたたえねはならないのです。
-W.H.オーデン-
↑最終的にオーデンでお茶を濁す人(笑)
・・・え?ここまで書いておいて、じゃあ、ぼくの「詩」は(一体)どうなのかって?・・・あれは「詩」という名の・・・←逃げる(笑)
言ってる本人が詩を書けないんじゃ、どうしようもないなこりゃ(* ̄艸 ̄)