ドキュメンタリー | 想像上のLand's berry

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言葉はデコヒーレンス(記事は公開後の一日程度 逐次改訂しますm(__)m)



「世界は成立していることがらの総体である。」 - L・ウィトゲンシュタイン


大辞林によれば、ドキュメンタリーとは、

「虚構によらず事実の記録に基づく作品」である。


メタレベル(高次の段階)から考えれば、

(カメラと演出も事実の内に含まれてしまうため)

たとえ、ある作品が演出されていた場合でも、

その作品もまたドキュメンタリーと呼び得るのではないだろうか。

確かに、それは「日常」の記録ではあり得ない、

しかし、「事実」の記録ではありえるのだ。(演出≠虚構)


(実際問題、メタレベルで考えると、すべてが事実に収斂されてしまうことになる。たとえ誰が何を言おうとも、それを「言ったという行為そのもの」は事実であるからだ。また、たとえ誰が誰を騙そうとも、その「騙したという行為そのもの」は事実であるからだとも言える。)


たとえ、フラハティの映画が演出されていたのだとしても、

彼が演出している場面さえも映っていたのならば、

それは「フラハティの映画製作」というドキュメンタリーとして機能しただろう。

つまり、(メタレベルで考えれば)

演出とドキュメンタリーは排他的な関係ではないのだ。

問題はカメラを「回し続ける」ことにある。

※フラハティ=アメリカの記録映画監督


では、(たとえカメラが回り続けたにせよ)

一台のカメラの背後で演出がなされ、

鑑賞者に何かが隠されている場合はどうか。

それもまた主観的なパースペクティブの限界性の問題であり、

虚構というのとは少し違う気がする。


注:たとえ複数のカメラで撮ろうとも

  「死角と距離」の問題があるため事情は変わらない。

  つまり、問題はパースペクティブそのもの

  (人の物の見方そのもの)に仕込まれている。 
 

主観的なパースペクティブは常に「何処か」に設定されなければならない。

また、現実問題として、カメラをずっと回し続けるというのは不可能だし、

それを鑑賞するのも不可能だ。それは「何処か」でCUTされなければならない。


これらを貫くもの、それは選択の問題なのだ。

とどのつまり、編集というのは時間の選択であり、

パースペクティブの設定は空間の選択である。

ドキュメンタリーは常に選択の脅威にさらされている。

そこには、我々が世界を把握するやり方の限界があるのだ。


では、そうした主観的な選択(編集やパースペクティブの設定、あるいは合成)

すらもドキュメンタリーの一部でありえるか?


う~む、なんだか行き詰まったな・・・


やっぱり、最大の問題は事実=真実ではないってところにあるんだろうね。

(事実の記録≠真実の記録)

ドキュメンタリーは「事実」の記録に基づくんだから、

それは、そもそもが主観的なものなのかも知れない。


注:その辺の考えについては過去記事をご参照下さい<(__)>↓





では、いわゆる「ドキュメンタリー」の価値って(一体)何なんだろう?


フィルムというアーカイブ全体の中で、

個々のフィルムが真実の断片(事実)を構成していて、

それらを包括すると、真実の領域がおぼろげに分かる・・・

いや、映像や写真、文字記録、それらすべてを含めて包括すると

その個々の断片が全体として真実の領域をおぼろに現す。

そういうことなんだろうね。


つまり、ドキュメンタリーの価値は「事実を汲み尽くす」ことにある。

(実際、ドキュメンタリーは世界のあらゆる片隅を汲み尽くそうとするだろう)


しかし、すべては流れていく。

この瞬間にも「記録」は行われている。

それらすべてを包括することなんて出来やしない。

真実はいつだって不確定なものなんだ。


なんだか、言いたいことが意味不明になってきたな・・・

↑書いている内にメンドくさくなってきた人(* ̄艸 ̄)


まあ、ぼくはそもそも、事実そのものが主観性に拠っている

(事実は常に主観的である)って立場だからな・・・←振り出しに戻る(笑)



↑の記事は今日の授業のコメントシートとして提出したものです。でも、まあ・・・上の方、三分の一程度(「虚構というのと少し違う気がする」まで)しか書けなかったから多分、真意は伝わらないと←書いているうちに手が疲れちゃった(笑)・・・ま、いっか(* ̄艸 ̄)