flowinvainさん、ヘーゲルに反論する1 | 想像上のLand's berry

想像上のLand's berry

言葉はデコヒーレンス(記事は公開後の一日程度 逐次改訂しますm(__)m)

   
そういえば、美学演習で発表した反論のレポートが帰ってきてました(笑)
 
 
テキスト
小田部胤久『西洋美学史』東京大学出版会、2009
 

 
僕は反論のために紀元前5世紀いわゆる古代ギリシアのクラシックと呼ばれる時代に限って考察を進めますが、紀元前8世紀頃に書かれたホメロスの『イリアス』は古代ギリシア宗教の原典とも呼べるものなので、反論のために使用することを、はじめにお断りしておきます。反論点は次の箇所です。本章191ページ、うしろから二行目。
 
ギリシアでは、芸術が絶対者に対する最高の表現であり、ギリシアの宗教は芸術それ自体の宗教であった。
テキスト、p.191
 
 
ヘーゲルの考え方
 
まずは、この文章を理解するために、ヘーゲルの考え方をおさらいしておきましょう。ヘーゲルは芸術を三段階に分けています。第一の段階は象徴的芸術であり、エジプトやインド、ヘブライの芸術が、それに当たります。建築がもっとも典型的な芸術です。第二の段階は古典的芸術であり、古代ギリシアの芸術を指します。具体的なジャンルでは彫刻。第三の段階はロマン的芸術であり、キリスト教芸術を指します。絵画、音楽、詩がもっとも典型的な芸術とされています。従って、上記の反論点の文章を考えるならば、ここで言明されている芸術とは彫刻を指すということになります。さきほどの引用文に続けて、本章にはギリシア芸術に対するヘーゲルの考えが示されています。
 
ヘーゲルは、あくまでも「絶対者」(すなわち神)の表現を芸術の本質とみなす。彼が古代ギリシアの芸術を賞賛するのは、古代ギリシアにおいては、ギリシアの神々の特質が芸術の本性と合致しているからである。というのは、ギリシアの神々は感性的な形態のうちにその精神性を十全に示しており、そこには精神的内容が感性的形態との一致がなりたっているが、まさにそれこそが芸術の本来求めるものだからである。
テキスト、Pp.191-192
 
個性を持つギリシアの神々を絶対者と呼ぶことには少し抵抗がありますが、この段階では取り敢えず置いておきましょう。ともかく、古代ギリシアの芸術(彫刻)には古代ギリシアの神々の特質が十分に捉えられているから、芸術と宗教が一致しているとヘーゲルが考えていることが分かります。さらに、ヘーゲルはキリスト教の時代に入ると、絶対者の示す内容が変わったので、感性による芸術では絶対者を捉えきれなくなったとしています。本章194ページにあるように

古代ギリシアからキリスト教世界への移行における絶対者の変容が絶対者の表現としては芸術を過去のものにした
 
テキスト、p.194
 
というのがその主張です。小田部氏が感性的な形態のうちにその精神性を十全に示す神々と言っているように、確かに、古代ギリシア彫刻の対象となった神々は感性によって捉えられると考えられます。その点において、僕はヘーゲルの考え方に異を唱えるものではありません。むしろ、問題は違うところに存在しているように思えます。それは、ギリシア宗教において、「絶対者」は、ギリシア彫刻の対象となった神々にのみ収斂されうるものなのだろうかという疑問です。
 
なお、上記の反論箇所に戻るのならば、

ギリシアでは、芸術が絶対者に対する最高の表現であり、ギリシアの宗教は芸術それ自体の宗教であった。
 
.191
 
という引用文の全文は(訳は若干違いますが)
 
このような神の形態と内容との照応関係はギリシャ神話の概念に存すると同様に、ギリシャ芸術の概念にふくまれているもので、これあるがためにギリシャでは芸術が絶対者に対する最高の表現であった。
ヘーゲル著/竹内敏雄訳『美学 (第2巻の中)』、岩波書店、1965、p.17
 
というものです。これは、ギリシア神話の概念がギリシア芸術(つまりギリシア彫刻)の概念と対をなしているという言明だとも受け取れます。古代ギリシアの歴史家ヘロドトスはギリシア神話について、
 
ギリシア人のために神の系譜をたて、神々の称号を定め、その権能を配分し、神々の姿を描いてみせてくれたのはこの二人なのである。
 ヘロドトス著/松平千秋訳『歴史(上)』岩波書店、1972、p.197
 
と述べていますが、このふたりとは、ホメロスとヘシオドスのことを指しています。つまり、ギリシア彫刻の対象となった神々とはホメロスが神話に描いた神々、すなわちオリュンポス神であると考えられます。オリュンポス神の起源に関しては諸説あって定かではありませんが、僕がオリュンポス神と言う時は、この用法に従って使用することをあらかじめお断りしておきます。
 
 
.モイラ(運命)という概念
 
モイライとはギリシア神話の運命の三女神ラケシス、クロートー、アトロポスを指す言葉です。一方、単数形で使われるモイラはまた違う意味を持っています。イギリスの古典学者コーンフォードは、このモイラという概念を用いてギリシア宗教を解き明かそうとしました。彼はこう述べています。
 
ホメロスにおいても神々は、神々よりもいっそう古く原初的であるとともに道徳的でもある、一つの遙かな力、に従属しているのです。それはモイラ、運命と呼ばれています。
F.M.コーンフォード著/廣川洋一 訳『宗教から哲学へ』東海大学出版会、1987、p.24
さらに彼は
かつてオリュンポス宗教が神と人間とを問わず、いっさいの個的力の領域を厳格な限界でもって限ったあのモイラによって支配されていたように 
 
F.M.コーンフォード前掲書、p.203
 
とも書いていますが、このモイラ(運命)は古代ギリシアの宗教を貫くある種の原理であり、オリュンポス神の中でも最高の地位を占めるゼウスですらも従わなければいけない定めであると考えられます。これを裏付けるように、『イリアス』の第十六歌にはゼウスが嘆く場面があります。
 
ああ悲しいことじゃ、人間どもの中でわしには一番可愛いサルペドンが、メノイティオスの子、パトロクロスの手にかかって討たれる運命にあるとはな。
 
ホメロス著/松平千秋 訳『イリアス(下)』岩波書店、1992、Pp.133-134
 
このように、定められた運命を前にしては、ゼウスでさえも自身が最も愛する人間が討たれる事態を打開しようとはしないのです。
 
 
.彫刻にはならなかったモイラ(運命)
 
運命の三女神ではなく、支配者としてのモイラ(運命)を象った彫刻は僕の知る限りではありません。また、古代ギリシア最高の彫刻家とされているペイディアスの作は現存していないので推測するしかないのですが、残っている見聞によれば、彼の作品からもその要素は見出せません。そもそも、「ない」ということを証明するのは難しいので、ここはヘーゲル自身の助けを借りましょう。彼は、こう言っています。
 
 このように抽象化された運命はただより高きもの一般であるにすぎない。神々や人々に強制をくわえるが、それ自身としては理解を絶し概念を没したものであるにとどまる。運命はなお絶対の独立自存する目的ではなく、したがって同時に主体的な、人格的な、神的な決定なのではなく、ただ、一つの、普遍的な力として、個々の神々の特殊性の上にぬきんでるものなのであり、したがってそれ自身がふたたび個体として表現されることはできない。
 
ヘーゲル著/竹内敏雄 訳『美学 (第2巻の中)』、岩波書店、1965、p.102
 
この文章をどう理解するかはなかなか難しいのですが、運命はそれ自身としては概念を没したものという部分。そして、独立自存する目的ではなく、個体として表現されることは出来ないという部分が鍵を握ります。運命はそれ自身としては概念を没したものという指摘は当たっているのでしょうか。『イリアス』の第十五歌ではポセイドンがゼウスからの使者に答えて、こう述べます。
 
ゼウスが彼と位も同じ、また運命によって権限も等しく定められている者に対して、腹立ちまぎれに雑言を吐くのは、いつの折でも不愉快で堪らぬ。
 
ホメロス、前掲書、p.88
 
すなわち、ポセイドンやゼウスは、モイラによって等しく権限を定められており、ゼウスといえども、それを乗り越えることは出来ないのです。ここにおいて、運命とは超えられない領域を指し示していると言えるでしょう。つまり、運命とは、権限を定めるもの、領域を定めるものとして規定できるのです。しかし、さきほどからの例を見ても分かるように、神話においてモイラは支配される側に向けられた視線によって捉えられているに過ぎず、支配者としてのモイラそれ自体は姿形を現していません。それゆえに、たしかに、支配者としてのモイラは造形芸術において表現されることはなかったと言えるでしょう。
 
 
.詩の目的としてのモイラ(運命)
 
一方、このように形がないものでありつつも、支配者としてのモイラ(運命)は常に人々に認識されており、従って、モイラは、詩の目的にはなり得たのではないでしょうか。それは、紀元前427年ころに書かれたソフォクレスの『オイディプス王』を考えてみれば分かるでしょう。オイディプスは神託を回避しようとして、結局は神託通りに行動してしまうわけです。オイディプスに神託を与える神はアポロンなのですが、この神託に力を与えている源泉は、むしろ、アポロンすらも従わなければならないモイラというギリシア宗教の根本原理にまで遡れるのではないでしょうか。オイディプスは王として、国に降りかかる災いの元凶を取り除かなければならない。しかし、災いの元凶となるその謎が解き明かされた時、オイディプスは必然的に滅亡するしかない。すべての状況は舞台が始まる前にすでに整っていて、あとはそれが解き明かされるのを待つだけなのです。こうなるようにしかならない。ブリニタニカが「おのれ自身の呪われた運命をあばき出してしまう、という筋の運びから成る。」『ブリタニカ国際大百科事典』ブリタニカ・ジャパン、2007」と説明しているように、この劇を思う時、僕はまさに運命という神秘を覆うヴェールが一枚一枚と剥ぎ取られていくような感覚を覚えます。
 
アメリカの美術史学者ポリットはこう述べています。
 
 最後の場面で、王は盲目となり、権力も失い、人間を超えた神の真の姿に気付くが、すでに手遅れだった。
 
J.J.ポリット著/中村るい 訳『ギリシャ美術史』ブリュッケ、2003、p.155
 
オイディプスが盲目になり、権力も失ったのは、まさしく運命によるものだったのですから、人間を超えた神の真の姿、それこそ、モイラそのものだったのではないでしょうか。そう考えるのならば、これは、まさしくモイラという支配者が主題になっている劇だと言い得るように思います。また、ソフォクレスと同時代のもう一人の偉大な劇作家アイスキュロスの『縛られたプロメテウス』を分析したニーチェは次のように述べます。
 
もっとも驚嘆すべき点は、公正を求めるアイスキュロス的な傾向である。一面には大胆な「個々人」の測りがたい苦悩があり、他面には神々の窮迫、のみならず神々のたそがれの予感があって、これが二つの苦悩の世界の融和と形而上学的一体化を強制する威力なのであるーこれら一切のことはきわめて強烈に、アイスキュロスの世界観の中心と主要命題を思い起こさせる。彼の世界観は、神々と人間の上に運命女神(モイラ)が永遠の公正として玉座についていることを認めるのである。
F.ニーチェ著/浅井真男訳「悲劇の誕生」『ニーチェ全集第一巻(第Ⅰ期)』白水社、1987、p.76
 
支配者としてのモイラは詩(劇)においては表現されうると言えるでしょう。詩において、これだけ明確に現れているものが造形芸術に現れていないということは、それ自体がギリシア彫刻の感性的形態とギリシア宗教の精神内容(すなわちヘーゲル的な意味においての絶対者)が一致するというヘーゲル的ギリシア芸術論の欠陥を示しているように思えます。ここまで見てきたように、ギリシアの宗教にはある種の原理として、このモイラが明確に埋め込まれています。従って、このモイラという原理を語らずしてギリシアの宗教を語ることはできません。