聖母マリア像の変遷にみる絵画史-第2章:ビザンティン美術 | 想像上のLand's berry

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言葉はデコヒーレンス(記事は公開後の一日程度 逐次改訂しますm(__)m)

 
聖母マリア像の変遷にみる絵画史-ビザンティン美術編-

《聖母子像》
870年頃、モザイク壁画
ハギア・ソフィア大聖堂アプシス、イスタンブール
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第2章、ビザンティン美術
 キリスト教を史上初めて公認したコンスタンティヌス大帝が紀元324年に建てた帝都コンスタンティノープル*1は、立地的にギリシャ文化圏の都市でもあり、この地でキリスト教美術とギリシャ美術は真の融合を果たしたのでした。395年のローマ帝国東西分割、その後、西ローマ帝国がゲルマン人の侵入によって滅亡したことにより、ビザンティン帝国(東ローマ帝国)のみが、ギリシャ美術から古代ローマ美術に受け継がれた伝統の正統なる後継者となりました。
 ビザンティン美術が後世に残した影響は、計り知れない程に大きなものでした。ビザンティン帝国では、726年に出された聖像禁止令*2と、それに続く聖像破壊運動(イコノクラスム*3)によって、ほぼ全ての宗教作品が破壊されましたが、わずかに残る作例によって、当時のビザンティン美術を知ることが出来ます。843年には聖像崇拝が回復され、以後、ビザンティン美術は第2の黄金期*4を迎えることになります。ビザンティン美術は、なによりもまず宗教美術でしたが、また同時に皇帝の注文によって制作された皇帝美術でもありました。その事実を象徴するように、光り輝く高価な壁画モザイクがビザンティン美術の中核を担っていました。
 ここに掲載したハギア・ソフィア大聖堂*5のモザイク壁画は、聖像崇拝回復後に制作されたものですが、およそ全てのモザイク壁画のなかで、もっとも美しいものの一つであるように思えます。黄金に輝く背後空間は現実世界の何処にもない場所を想起させ、濃紺の衣装を纏った聖母に抱かれた金色の幼児イエスは、揺るぎない神性を感じさせます。神なる世界への窓として、聖像が信仰の手段となったことを示すように、正面性を持った聖母子像は鑑賞者との関係を感じさせるものになっています。無表情でありながらも、決して冷たさを感じさせない《聖母子像》は、この時代の美術の一つの頂点を示しています。


《ウラディーミルの生神女》
12世紀初頭、板絵イコン、テンペラ
トレチャコフ美術館、モスクワ
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 ビザンティン美術を特色づけるもう一つのものはイコンです。イコンは礼拝の対象となる図像で、当時の神学者たちは、イコンを礼拝するということは、物質世界にあるイコンそのものを崇拝するのではなく、イコンを通して神の世界の実体を崇拝しているものと考えました。しかし、前述したように過熱する聖像崇拝に反対する動きが起こり、イコノクラスムによって多くの聖像が失われました。しかし、この論争によって築かれたイコンの図像学は長い命脈を保ちました。聖像論争以後、イコンは描かれた図像を通して神の実体を崇拝するための手段として再確認されました。この時、根拠とされたのが、まさに神であるキリストの受肉でした。物質は聖なるものを表現できると考えられたのです。このため、イコンに描かれる図像は神学的に厳密に決定されました。聖像崇拝回復以降のビザンティン美術では、偶像崇拝に陥る危険を恐れたために、丸彫り彫刻は造られず、絵画においても3次元的に肉体を描くことを注意深く避けました。
 ここに掲載した《ウラディーミルの生神女》は、1131年にコンスタンティノープル総主教より、キエフ大公に贈られたもので、非常に尊ばれました。生神女とは、正教会*6における聖母の呼び名です。何度か修復されて、今日に至っていますが、このイコンは、あらゆるイコンのうちで、もっとも多く複製された図像のひとつだと考えられています。聖母マリアは我が子の行く末を予知して、憂いに満ちた表情をしていますが、頬を寄せ合う聖母子像は慈愛に満ちあふれています。そして、衣服は平面的な描かれ方をしており、肉体を感じさせません。精神美と自然美の融合がビザンティン美術の特色であり、それは長い歴史を通して変わりませんでした。


《聖母子像》部分
7世紀、板絵イコン
サンタ・マリア・ヌオーヴォ
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 イコノクラスム以前のイコンが、コンスタンティノープルから遠く離れているシナイ山のハギア・エカテリーニ修道院や、ローマのサンタ・マリア・ヌオーヴォに残っています。ここに掲載したイコンは、サンタ・マリア・ヌオーヴォに残っていたもので、1949年に発見されました。歪んだ形体は現実の超越を示しています。見るものを威圧するかのような圧倒的な存在感。超越性と実在性が共存しているようで、非常に鮮烈な印象を与えられます。


脚注
*1コンスタンティノープル:コンスタンティヌス1世(大帝)により324年に建設、東ローマ帝国の首都として、1453年に帝国が滅亡するまで、十字軍に占領された時期(1204-1261)をはさみながらも、実に1000年以上に渡って東ローマ帝国の首都であり続けました。オスマン・トルコの支配下でイスタンブールと改名され、現在に至っています。
*2聖像禁止令:東ローマ皇帝レオ3世が726年に布告しました。布告の理由は定かではありませんが、自然災害の影響や政治的な思惑もあったようです。
*3聖像破壊運動(イコノクラスム):レオ3世の息子、コンスタンティヌス5世の時代には、徹底した聖像破壊がなされ、十字架の象徴を除いて、ほぼ全ての宗教画が失われました。
*4第2の黄金期:第1黄金期ユスティニアヌス大帝時代(527-565)、第2黄金期マケドニア朝時代(867-1057)、第3黄金期コムネノス朝時代(1057-1185)
*5ハギア・ソフィア大聖堂:537年にユスティニアヌス帝によってコンスタンティノープルに建てられたビザンティン建築を代表する遺構。オスマン・トルコ占拠後はモスクとして使用され、イスラム圏ではアヤ・ソフィアと呼ばれています。現在は美術館になっています。
*6正教会:正式名称は正統カトリック教会。一般には東方正教、あるいはギリシャ正教とも呼ばれます。1054年の公会議で、ローマを中心とするカトリック教会と、コンスタンティノープルを中心とする正教会の分離が確認されましたが、実質的には、それ以前から段階的に分裂が生じていました。


参考文献
・アンドレ・マルロー/ジョルジュ・サール/アンドレ・パロ著、辻佐保子 訳『人類の美術 ユスティニアヌス黄金時代』新潮社、1969
・イルムガルト=フッター著、越宏一/福部信敏 訳『西洋美術全史4 初期キリスト教美術/ビザンティン美術』グラフィック社、1978
・千足伸行 監修『新西洋美術史』西村書店、1999
・『名画への旅2ー光は東方よりー』講談社、1994
・益田朋幸 著『地中海紀行 ビザンティンでいこう!』東京書籍、1996
・『オックスフォード西洋美術事典』講談社、1989
・『ブリタニカ国際大百科事典』 Britannica Japan、2007


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