世界でただひとつの場所-後編- | 想像上のLand's berry

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言葉はデコヒーレンス(記事は公開後の一日程度 逐次改訂しますm(__)m)

 
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 視界を覆う杉林が疎らになり、目指す場所に近づいたことが分かった。あまりにも静かな風景。一歩あゆみを進めるたびに、男の心臓は張り裂けそうになった。

 彼が、傷つき易い心を表に出すことは無かった。未だに快活に振舞っていたし、何かを心配している様子は無かった。街中を一人歩き、人と違う自分を認識して自尊心を満たしていた。15歳、彼の居ない中学校の卒業式。彼は枕に顔を押し付けて咽び入った。彼は自分の弱さを認めた。もはや何者でも無かった。とても奇妙なことだったが、両親は彼を信頼していた。彼が学校へ行かないことを詰ったりしたことは一度も無かった。それでも、やはり心配はしているようだった。彼を傷つけないように、自分たちの心を隠していた。自分たち自身の傷ついた心を隠していた。彼は、ある言葉が嫌いだった。その言葉は彼のような人間を指して呼ぶ言葉として定着したが、自分たちが理解出来ないものを、理解し易い枠に押し込めて安心してしまうような考え方に、彼は興味が無かった。紛れも無く彼は時代が生んだ子だった。だが彼は自身を生んだ時代を愛していた。自尊心の強い彼にとって、時代を憎むことは自身を卑下することだった。ヨーキーだけが、彼の友達だった。

 杉林の小道をゆっくり下ると視界が開けた。遥か遠くの海が霞んで見える。男は歩き続けた。10m、5m。小さな空地が其処にあった。

 ヨーキーと彼の時間の進み方は違っていた。別れの時は刻々と近づいていた。年老いて、目が見えなくなり、腎臓が悪くなっても、必死で生きていた。彼の心に何かが芽生えはじめていた。過ぎ去る季節に傷つくだけだった彼の心に、涙以外のものが流れはじめていた。夢など、未だ信じられるものではなかったが、瞬間瞬間を生きる大切さに気付きはじめていた。残された時間は長くは無かった。悲しんでいる時間は無かった。2mも離れると寂しがる子だった。ヨーキーは両親の寝室で寝ていたが、朝起きて彼の姿が見えないと、決まって彼の部屋のドアを引っ掻いた。彼が眠りに着く時はドアが閉まるまで見送っていた。彼はいつも「バイバイ」と言いながらドアを閉めた。いつ別れの時が来ても良いようにと。そっとドアを開けて覗いてみると、廊下の向こうから飛んできた。まるで、彼を守っているかのようだった。ある日、彼は高卒認定試験のパンフレットを取り寄せた。家族は、そっと見守っていた。彼が世界に向かって、恐る恐る扉を開きはじめた理由は、なんとなく分かっていた。別れの時が近づいていた。

 男の目からは、とめどもなく涙が溢れていた。全ての感情が溢れ出たように、全ての景色を目に焼き付けているようだった。二度と忘れないように、深く深く心に刻みつけているようだった。

 大学センター試験を2週間後に控えた冬の日。TVでは天皇杯の決勝が流れていた。PM2:30。彼が愛して止まなかったヨーキーは旅立っていった。それはまるで、彼の新たな旅立ちを見送るかのようだった。いつでもそばに居られるように。いつまでも一緒に居られるように。深い深い悲しみの中で、彼は気付いていた。あの来る日も来る日も空を眺めて押し潰されそうだった日々が、あの狂おしいほど陰鬱だった日々こそが、2度と戻ることのない金色の日々だったのだと。全ての涙は、そこに帰っていった。もはや何にも恥じることはなかった。あの日々を。あれほど心を掻き乱した不安は去り、台風が去った後のように穏やかな心境だった。地平線は、どこまでも遠くへ続いていた。暖かさに満ちた長い長いトンネルを抜けると、世界は夜になっていた。だが不思議と恐れはなかった。誰にも侵されることのない、世界でただひとつの場所を、彼は手に入れていた。彼は、大地を足で踏みしめて歩き出した。見上げる空は、どこまでも透き通っていた。朝が近かった。
 
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